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2017年10月06日 ビズアップの歴史 メールマガジン ロゴデザイン 所感 【第400回】なぜ今のビジネスをしているのですか?(恥ずかしい昔の写真付き)

2017年12月08日掲載開始

こんにちは。
ロゴ作成専門ビズアップ 津久井です!
https://www.biz-up.biz
記念すべき
メルマガ第400号です。
このメルマガは
毎週金曜日にお送りしてます。
400回となると、
実におよそ丸8年の歳月となります。
うーむ。
我ながらなかなかがんばっとるね。
お盆や正月、祝日を除いて
毎週書いてきました。
ときには体調が悪く
自宅の布団に入りながら
書いた日もありました。
メルマガの配信システムが
システムダウンして、
金曜日に配信できなかったことも
1日だけありました。
会社が
ピンチになったこともありました。
いろいろありましたが、
つづけてきてよかったと
心から思っています。
このメルマガで、
ビズアップのことを
より深く知っていただいたことで、
津久井に良い印象を持ってくださった方、
「会いたい」と言ってくださった方、
ロゴ以外のお仕事をくださった方、
そして
メルマガの感想を送ってくださった方、
こうった方々との
かけがえのないご縁をいただけたからです。
改めて
ここで感謝の言葉を
お伝えさせていただきます。
いつもメルマガを読んでくださって、
本当にありがとうございます。
そんな記念すべき400回目のメルマガ。
本日は今更ですが改めて自己紹介を
してみたいなと思います。
私はたぶん自分のことが好きです(照)
でも自分に自信があるほうかというと
おそらくあまりありません。。。
変な自己矛盾があるんですね。
ただ、
自分に自信がないと言うわりに
過去の恥ずかしい自分、弱い自分を
わりと包み隠さずに話すほうです。
セミナーなどで登壇する機会をいただくと、
私は自己紹介だけで20〜30分費やします。
採用活動の社員面接でも
自己紹介だけで同じように
時間を使います。
自分に自信があるほうではない、
とお話したくらいですから、
過去の自分を自慢したくて
話しているわけではありません。
それでも、
自己紹介を聞いてくれた人は
セミナーにしても面接にしても
その後の私に対する態度や評価が
好転することが少なくありません。
なぜか。
それは、
自分のコンプレックスも
つつみ隠さずに話すことによって、
心の深いところで
共感してもらえる可能性が高くなるからです。
だから、
コンプレックスは武器になります。
コンプレックスはその人の「why」です。
コンプレックスはその人の人生で
かけがえのないスキルを与えます。
本日は自己紹介をしながら、
私のコンプレックス=行動の源泉を
まだ知らない方へお伝えしたいと思います。
私のコンプレックス=行動の源泉は
「普通コンプレックス」
というものです。
「普通コンプレックス」が
どのようにして自分に重要なスキルを与えたのか、
それを独立までのストーリーとともにお話します。
さて、
ここからめちゃくちゃ長いです!
つづきは3時のおやつのときにでも
お読みください!
●普通がイヤで仕方なかった小学生時代
小学校時代のお話です。
→ http://bit.ly/2y35Fxy
子供のころの私は、
自己重要度がものすごい
高かったと思います。
「ひとりっ子」
だったからだと思います。
以前もメルマガでお話しましたが、
私の両親はどちらかというと
厳しいほうでした。
普通、
ひとりっ子は甘やかされがちだと
思われていると思います。
しかし、
我が家ではそんなことは
なかったと思っています
(わりと厳しいほう)。
それでも「ひとりっ子」は
自己重要度に影響を与えるに十分でした。
なぜなら、
「比較される相手があまりいない」からです。
兄弟がいないと比較されづらいわけですね。
だから自ずと自分の価値を高く見積ります。
また、
両親が会社をやっていた関係で
あまりかまってもらえませんでしたが、
かわりに
近くに住む親戚や近所のおばちゃんなどには
かわいがってもらえていたことも
自己重要度に影響があると思われます。
そんなこんなで
心のどこかで自分を特別だと
思い込んでいるフシがあったように
今考えると思うのです。
しかし、
その状況は小学校に上がったころに
変わってきます。
同じ年齢の子どもたちがたくさんいる中で、
自分が重要視されていないと感じはじめたのです。
そして
私は自分を表現することも下手でしたし、
特に取り立てて目立つスキルや特技も
持ち合わせていませんでした。
たとえば小学生くらいだと、
・足が速い
・運動神経がいい(スポーツが得意)
・面白い、ひょうきん
・勉強ができる
・イケメン
・ケンカが強い
・悪い
といった子たちが
相対的に目立ちます。
つまり友達にも、女の子にも、
先生からも存在を意識されます。
・ケンカが強い
・悪い
というと若干ネガティブですが、
私にとっては
「目立つ」という価値において
ほとんど同列でした。
「目立つ」=「重要」だったのです。
目をかけてもらえるだけで重要だと
感じていたわけです。
そのどれにもなれない自分が
たまらなくイヤだったことを覚えています。
しかし、
怒りの矛先は自分を認めてくれない
まわりの人だったことも否定できません。
「なんでオレのことを見てくれないんだ!」
「なんでオレの言うことを聞いてくれないんだ!」
こんなふうにずっとすねている、
そんな子どもだったように思います
(ちょっと大げさですが)。
同じように、
学校で大して目立てない友達も
たくさんいましたが、
多くの子たちが
そんなことはどうでもいいと考える中、
私にとって、
この時期の「存在感がない」「普通の人」
というまわりの評価は何ものにも
かえられないくらい辛いことでした。
ある日、
象徴的な出来事が起こります。
学校の修了式で
通知表をもらって帰ってきたときのことです。
私の出身の練馬区の小学校は、
当時は通知表の評価が
・良い
・ふつう
・もう少し
の3段階でした。
そのすべての教科および生活態度の評価で
オール「ふつう」をとったのです。
「ふつう」の欄に
きれいにタテ一列に並んだ「◯」の
印をいまだに鮮明に覚えています。
客観的に、定量的に、学校公認で
「価値ないよー」と言われたと感じました。
他の人にとっては
どうでもよいことでしょうが、
または「もう少し」が多い子からは
良い成績だと思われたかもしれませんが、
私はそれを見て愕然としました。
この時、
言葉にはしきれませんでしたが
明確に自分のコンプレックスを実感しました。
ちなみに両親は
2人で会社を経営していましたので
遊び相手はほとんどしてくれませんでした。
夕飯を食べた後は、
父親はお酒が入っていることもあり
そのまま居間で雑魚寝。。。
母親は鬼のような後片付け。
兄弟もおらず遊び相手がいない私の
このころの趣味は
・ひとりでトランプ
・ひとりで将棋
・ひとりでお絵かき
・ひとりで自分で考えたゲーム
などなど。
そして、
厳しかった両親は
私におもちゃを買い与えませんでした。
でも、だからこそここで
「どうやったら楽しくなるか」を
常に考えるようになりました。
「誰も遊んでくれない、でも楽しみたい」
「なにも与えられない、でも楽しみたい」
こうして得たスキルのひとつが創造性です。
自分が楽しいと思う何かは
自分でつくり出す、生み出すしかないのでした。
実は私、
小学校一年生の時に死にかけています。
重い肺炎にかかり、学校を2ヶ月休学。
当時の町医者の先生が
とても優秀な方で
入院こそ免れましたが、
血液数値は80〜90歳の
もうすぐ天寿を全うされる方にも
1人か2人くらいしかいないレベル。
両親はお医者さんから
「覚悟しておいてください」
と言われたそうです。
●やっぱり普通でいじけていた中学生時代
→ http://bit.ly/2gfOb7M
自分のコンプレックスは
中学生でさらに大きくなります。
目立てなかった小学生時代の記憶を
書き換えるかのように、
クラスで存在感を出すことに
躍起になりました。
結果、
入学早々クラスで悪目立ちし、
少々いじめにあいましたした。
それから
あまり目立たないようになりました。
小学生時代とさして変わらない毎日。
より一層コンプレックスが強くなったのは
思春期だったせいもあると思います。
私は
小学5年生からサッカーチームに入り
中学の部活もサッカー部でした。
しかし、
ここではレギュラーにもなれず、
レギュラーメンバーとの付き合い方も
どうすればいいか見失っていました。
サッカーがうまくなければ
先輩からも同級生からも後輩からも
リスペクトされないし、
かといってサッカー以外で
仲間に一目置かれるような存在感を
示せる何かも持っていませんでした。
とある練習試合では、
お情けで途中出場させてもらった中、
ドリブルで相手を抜こうとしたときに
ボールを見失ってしまい、
そのまま相手とぶつかって、
見失ったはずのボールの上で尻餅をつき、
お尻でジャンプするという奇跡を起こし、
ベンチで見ていたレギュラーメンバー、
試合に出ていた仲間や後輩、顧問の先生
対戦相手とそのベンチから
大爆笑を引き起こすという、
キャプテン翼もびっくりの
荒業をやってのけました。
そしてこの技(?)は
「消えるフェイント」と名付けられ、
しばらくの間ちょっとした
ブームになりましたが、
当時の私には
これを笑いで切り返す能力もなく、
恥ずかしいし辛いし、もうサッカーを
辞めたいとすら思いました。
せっかく目立てたのに(笑)
「ボールは友達」って言うけど、
その友達にも騙され裏切られたた気分でした
(もちろん自分が悪い)。
お笑い芸人なら
まさに神業なんですけどね(笑)
そんな中、
さらにまた象徴的なできごとが。
私の中学校のサッカー部はとても強く、
東京23区の中で当時かなり強かった練馬区の
その中でも優勝したことがあります。
まさにその優勝がかかった区大会決勝戦、
保護者が大勢見に来ている中でのことでした。
運動会すら来たことがなかった両親も
そのときばかりは珍しく試合を見に来ました。
両親含む大勢の保護者の目の前で
顧問の先生に言われたのがこれでした。
「津久井、ゴメン!ベンチにも入れてやれない!」
後輩でベンチ入りしている人間も当然います。
私たちの学年では優勝のかかったこの試合で
ベンチ入りすらできないのは私ともう一人だけでした。
いまだに覚えていますが、
なんとなく笑ってごまかす自分の視界の中に
大勢の保護者に混じってこちらを見ている
両親をはっきりと確認しました。
笑ってごまかす自分もとても情けなかった。
もちろん、
厳しいスポーツの世界ですから
こんなことは当たり前です。
ただ、
何が象徴的だったか。
そのサッカー部のエースは、
3歳から遊んでいて家も同じ
アパート内にある幼馴染だったんです。
先輩から好かれ、
後輩から慕われ、
友人から尊敬され、
先生から一目置かれ、
そして女の子から絶大な人気があって
さらにサッカー部のエース。
否が応でも比較してしまう自分。
そして何より、
彼はうちの両親からも
絶大な評価を得ていました。
私がほしいものをすべて持っていたのが
その幼馴染だったというわけです。
もちろんその試合でも大活躍。
こんな出来事の数々が
私の原型を作っていきました。
●存在感の示し方を少し掴んだ高校時代
→ http://bit.ly/2xVxXe1
実は
うだつの上がらなかった中学時代において
もっともすばらしい決断をしたなと
当時の自分を褒めたくなるできごとが
ひとつだけあります。
それは高校受験の時の話です。
好きな子を追いかけて自分の偏差値より
15低い高校に入学することに決めたのです。
中学時代は地味に勉強ができました。
しかし学年でそもそも目立てない上に
中途半端な存在感の自分が、
多少テストでいい点を取ったところで
注目されるなんていうことは
ほとんどありませんでした。
偏差値がそこそこ高い高校も
推薦枠を使って合格していたのですが、
どうしても好きな子と同じ高校に
行きたくなってしまいました。
母親は「偏差値の高い私立」に行かせようとし、
私は「おバカな公立高校」に行こうとしたことで、
母親とは毎晩大ゲンカ。
結局「行きたい高校に行く権利」を
なんとか勝ち取ります。
でも今思えば、
好きな子がどうのこうのよりも、
そんな理由で高校を選ぶ(偏差値を下げる)
「普通じゃない行動」をしたくて
仕方なかったんだと思います。
誰もが
「自分のレベルよりも高いところ」
「自分のレベルと同じくらいのところ」
を目指す高校受験で
誰も取らない行動を取った自分に
不思議なことが起こります。
まず、
高校に入学してすぐ、
勉強は何もしなくても
学年で二番に(その後一番に)。
レベルの高いサッカー部にいたおかげで
入学早々いきなりサッカー部のベンチ入り。
「ねえねえ、あの人よ!
 サッカー部でいきなりレギュラーになって
 勉強がすごい出来る人〜!」
みたいな女子たちのささやきが聞こえ、
人生初のモテ期到来(最初で最後)。
中学時代苦手だった数学が
ちょっとした成功体験で
ものすごく得意になり東京都で28位に。
これは、
自分のレベルにあった、
もしくは自分のレベルより高い高校に
行っていたら得られなかった実績だと思います。
レベルの低いところに行ったことで、
成功体験を積むことができた。
結果レベルの高いところの人たちよりも
良い実績をあげてしまった。
これはとても不思議な体験でした。
実はこれは私のブランディングの
わりと基礎的な考え方になっています
(レベルを下げろという意味ではなく)。
その後、
偏差値50のその高校から
現役で横浜国立大学に推薦入学。
全校朝礼で
「数十年ぶりの快挙」と発表されます。
大学はおろか専門学校すら落ちる人が
続出するような高校でしたから、
本当に快挙だったようです。
が、
おバカな仲間たちや後輩たち
(人間的には大好きですよ)には
その価値はわからなかったようです。
そもそも
「横浜国立大学?聞いたことね~し」
という人がほとんどでした(笑)
ちなみに高校時代、
調子に乗った私はバンドをはじめます。
バンドではラジオに出演しました
(もちろん素人ですが。。。)。
クラスでは中心的な存在になり、
学級委員長に推薦され、
「反抗的な学級委員長」として
先生に向かって消しゴムとか
投げてましたね。。。
中学1年生からはじめた
空手のおかげなのか、
わりと運動神経が開花し、
体育の授業の評価は常に「5」でした。
「運動ができて、勉強ができて、大人に歯向かう」
こんなのがかっこいいと
思っていて(ものすごい偏見)、
実際に評判が良かったわけです。
つまり高校時代は
「なりたい自分」になれた時期でした。
●存在感がおかしい方向にいった大学時代
もっと目立ちたい、
と思っておかしな方向に
いったのがこの時期です。
こちらをご覧ください。
見ての通り、完全にオ◯ム真理教です(汗)。
→ http://bit.ly/2xlHDud
この写真は大学に入学して早々のものです。
実際にこの数週間前に
地下鉄サリン事件があり、
当時汚いネルシャツと
ラッパズボンでこの顔をしていた私は
電車に乗って駅員さんに何度あとを
つけられたかわかりません。
そして、
もっと目立ちたいと思っていたくせに、
ある時急に燃え尽きます。
高校生時代の華々しい
(と勝手に思っている)時代から一転、
急に冷めて(覚めて)しまい、
家に引きこもって電気を消して
夜な夜な暗闇でギターを弾く
(しかも大して弾けない)という、
「達観した自分」に酔った
パフォーマンスをしていました
(誰も見ていない)。
「暇だから死のうかな?」
とか思っていましたし
(ほんとにバカです)。
勤労意欲はほとんどなく、
バイトも週に1日くらいしか
しませんでした。
本当に
どうしようもない時期でした。
今、こんなに働いている自分が
冗談抜きで不思議です。
そんな中でも新しくバンドを結成し、
インディーズでCDをリリースしました。
このころの自分は、
「普通ではない、人とは違う人生」を
生きたいと思っていましたが、
それを
ひとりでやる勇気はありませんでした。
なので、
バンド活動は仲間という「道連れ」がいて
自分にとっては程よかったのかもしれません。
とにかく大学時代は
サッカーとバンドと麻雀しかしない、
本当に堕落した4年間を過ごしました。
大学4年になってすぐの就職活動時期、
バンドの練習明けにメンバーと食事を
していたときのことです。
私は勇気を出して言いました。
「就活しないで1年間バンドをやろう!」
メンバーの反応は意外とよかったです。
長い人生、1年くらいフリーターやりながら
何か大きいものを目指すのもいいだろう、と。
そんなメンバー同士の
アツい誓い合いがあった2週間後、
中心メンバーのボーカルの人間が
内緒で就職活動をしていることが判明。
びびりの私は
慌てて就職活動を開始しました。
●社会人から独立まで
→ http://bit.ly/2hT2Vxj
就職先を決めたのは、
「その大学から誰も行こうと思わないだろう」
という思考パターン+直感でした。
これは、
高校選びと大学受験で身につけた
成功体験がベースでした。
人と違うことをやったほうが
結果は必ず良いものになるはずだ、
という考えです。
リクルートの情報誌を見ていて
「あ、オレこの会社に入るな」と
感じた会社に本当に入社してしまいました。
その会社の説明会には
300人以上来ていたようですが
説明会経由で入社したのは私だけでした。
うまいこと存在感と存在価値を
その会社を受けた誰よりも示せたのです。
このころには
このくらいのことは
御手の物になっていました。。。
本当は、
ゼミの先生に気に入られて
「都市銀行ならどこでもクチを聞いてやる。
 住友銀行(現三井住友銀行)か
 三和銀行(現三菱東京UFJ銀行)なら
 確実にコネで入れてやれる。
 他のゼミ生にはこの話はしていない」
と言われていました。
ゼミでもうまく存在感、存在価値を
先生に対し感じてもらうことが
できていたのです。
ですが、
「お金の勘定に興味ありません」
という生意気な発言をし断ります。
存在感を示す自分の勝ちパターンから
外れていたと思ったのと、
将来独立の可能性をどこかで考えていて、
小さい会社のほうが社長の近くで
1から10まで勉強できると思ったのです。
就職氷河期1年目、
誰もが大手に何とか入ろうとする中、
この規模の会社に入ったのは
学年でも私だけだったかもしれません。
結果、
狙い通り入社した会社で目立ちます。
その会社では
私が当時もっとも高学歴だったからです。
先輩たちも
「ついにうちにも国立大学出身者が!」
という評価だったらしいです。
で、
社長の仕事を入社3ヶ月でいきなり引き継ぎ、
営業成績が自動的にTOPになります。
予想どおり社長に近いところで
1から10まで仕事をさせてもらえたので、
ものすごくきつかったですが、
ものすごく勉強になりました。
このころ、
二足のわらじでつづけていたバンドで
大手レコード会社からCDをリリース、
あと一歩でメジャーデビューできそうでしたが、
ある日、
大事なライブの当日に
ボーカリストがまさかの失踪。
そのままバンドは空中分解しました。
新卒で入社したこの会社では
社長から
「お前はワシのロボットになれ」
とはっきりと言われました。
普通コンプレックスの私が
「人のコピーになれ」と言われるのは
本当にイヤなことだったのですが、
このときは新卒で
デザインの「デ」の字も、
印刷の「イ」の字も知りませんでしたから
丁稚奉公のごとく
本当に2年間ロボットのように働きました。
いやいやそれどころか、
自分で予測して社長の
スケジュールを先回りしたり、
苦手だったパソコンで
データベースを勉強して組んで
手書き文化だった会社の中で
ひとりパソコンで仕事したり、
ロボットよりも
人工知能といったほうが近かったかも。
2年したところで
一度社長にブチ切れました。
人工知能は将来人間の敵になるかも、
みたいな話に近いかもしれませんが、
「ロボットの反逆」よろしく、
自由に仕事させてくれない社長と
電話で大ゲンカしてしまったのです。
自分で言うのもどうかと思いますが、
2年間は本当に朝早くから夜遅くまで
「社長のいいなり」として
がんばったと思います。
もともとロボットになんか
なりたくないタイプの人間ですから、
この2年間は多くを学びましたが
鬱憤も溜まっていたのでしょう。
ある仕事の決済を社長がしてくれず、
理由を聞いても「ダメなもんはダメだ!」
しか言ってくれない社長と大ゲンカ、
最後は「もういいですよ!!!」と
思わず電話をガチャ切りしてしまいました。
その10秒後に、
また社長から私宛に電話がありました。
「ごめんな、
 君の思うとおりにやってみなさい」
と言ってもらえるのかと思いきや、
「ワシより先に
 電話を切るんじゃない!!!!!!!!!!」
と言って
ガチャ切り返しをされました。。。
今思うと、
この会社にいた期間はビジネスにおいての
少年時代のようなものかもしれません。
そしてこの会社の社長は
ビジネスにおいての父親的存在だったと
感じています。
勉強の基礎を学ぶ小学校と同じで、
この時期にロボットのように動くことは
もしかしたらよかったのかもしれません。
守破離の「守」ができない人って
思いのほか多いんですよね。
そんな会社で6年間働き、巣立ちます。
マーケティングを勉強したくて転職しました。
転職先では結局、
マーケティング職ではなく
営業職での入社となりました。
しかもブラック企業でした。
残業が多いとか、
そんなことははっきり言って
どうでもよかったことです。
むしろ逆で、
その会社はある会社の子会社として
「ど」がつくベンチャー企業で、
まだサービスも開始されていないのに、
それどころかサービスの開発中なのに、
夕方5時になると
20人近い社員のほとんどが
帰宅するような会社でした。
1月にできた会社で
4月からサービス開始の予定でした。
5時に帰っていて間に合うレベルではないのに
誰もが自分ごととは感じていませんでした。
「自分は早く帰っても
 4月にはサービスが開始されるんだろう」
そんなわけがないことは
ちょっと想像すればわかることなのに、
みんなこう思っていたのだと思います。
社員のこの低いメンタリティが
まずはブラック企業です。
ベンチャーだということは
みんな聞いて入社または
転籍してきているはずなのに。。。
3月頭の時点で
4月にサービスを開始できる気配すらなく、
社長がついに怒りだします。
「おまえら、
 営業も一般事務も上司も
 部下も男も女も関係ない。
 今月ひとり50万売り上げろ。
 達成しないやつは給料なしじゃーい!!」
この社員と社長のやり取りが
お先真っ暗な感じという意味からも
ブラックです。
まあ、
その会社のゼネラルマネージャーも
どうしようもない人でしたから、
社長の気持ちもわかります。
私は
このゼネラルマネージャーが
キライでした。
そして、
ゼネラルマネージャー含め
5時に帰宅していく同僚もイヤでした。
そんなとき、
いつもひとりだけ残業をしている人がいました。
この会社の取締役でした。
夕方5時以降にみんなが帰った後、
一部屋だけ煌煌と明かりが灯る取締役部屋。
私は5時以降になると、
自然とこの取締役の仕事を
手伝うようになりました。
あるとき、
ゼネラルマネージャーが
会社の計画がうまくいっていないことを
社長の前では社員のせいにし、
社員の前では社長のせいにしているのを
目撃してしまいました。
何か事情があったというよりも
保身のようにしか感じられませんでした。
そして、
取締役に勇気を出して言いました。
「もうあの人の下で働きたくありません」
すると取締役は
「じゃあ、おれの直の部下になるか?」
と声をかけてくれたのです。
そしてその取締役は
私が求めていたマーケティングの
プロフェッショナルだったということが
後からわかったのです。
図らずも
マーケティング職を諦めて
営業で入った会社で
マーケティングを学べるとは。
毎日より一層
遅くまで仕事をすることになりましたが、
その人にすべて叩きこんでもらえました。
50万円の売上は
私と取締役とあと2名しか上げられず、
ゼネラルマネージャーすら達成しませんでした
(ちなみに私はうち20万自腹)。
このあたりから、
社内には「この会社おかしくない?」
という雰囲気がはびこりだします。
おかしいのは会社だけじゃなくて
「おかしくない?」とか言ってる
君らもだけどね、と思いましたが、
それは言葉には出さず、
ひたすらにマーケティングの仕事を
もくもくとこなし、
昼ごはんも意識の低い同僚とは行かず
ひとり喫茶店に入り、取締役に聞いた
読むべき本をすべて読んでいました。
それでもというかやはりというか、
私と取締役ではその組織の崩壊を
防ぐことはできませんでした。
私が入社して(子会社ができて)9ヶ月後、
多いときには50名くらいいた社員は
私と取締役を入れて9名にまで減り、
ゼネラルマネージャーも辞めていました。
そして、
あるとき取締役に言われます。
「オレらももう、
 ここにいてもできることはない。
 給料泥棒になってしまう。潔く辞めよう」
先のことが
まったく決まっていませんでしたが、
私は昼ごはんのカレーを食べながら
二つ返事で「わかりました」と伝え、
翌日にはふたりで辞表を出しました。
実はここで一度、
思い切って独立してみよう、
と思ったことがあります。
ネットを使って
両親が経営する薬屋さんの
健康食品を通販しようと思ったのです。
1社目の時から
結婚資金として貯めていた120万の貯金は、
2社目で予定の額の給料がもらえなかったことや
20万の自腹を切ったことにより、
残りが30万円ちょっとにまで
減ってしまっていました。
しかし、
そのなけなしの貯金をはたいて
30万円で知り合いにサイトを
つくってもらうことにしました。
残った貯金を使いながら
実家に行ってご飯を食べさせてもらったり、
だましだまし準備をしましたが、
結局貯金も底をつき、
サイトが完成する直前で
もう一度就職することになります。
3社目、
2社目のときに付き合いのあった
IT関連の社長さんが私を気に入り、
「友人と飲食のコンサル会社をつくって
 自分が取締役になったから、
 オレの部下として来てくれ」
とオファーがありました。
独立前の総まとめとして
この会社では
・撮影
・デザイン
・原稿作成
・印刷手配
・ECショップ店長
・新店オープン準備
・採用活動
・人材教育
・フランチャイズの営業
・マーケティング
・お茶くみ
・コント(ネタ作りから)
と全部やりました(どんな会社だ??)。
入社して6ヶ月、
結婚資金は自分で貯めたいと思っていましたが
結局親の援助を受けて挙式。
結婚式は明治神宮と明治記念館で
盛大に執り行わせてもらいました。
社長はじめ会社の役員5人が全員出席し、
社長は祝辞で
「三階級特進!課長代理!年俸120万アップ!」
のサプライズ辞令を出し、
両親はじめ親戚一同が私に対して
とても誇らしい気持ちになった2ヶ月後、
早くもその会社を辞める決断をします。
今思うとなんて薄情者なんでしょう。
理由は、そうです。
ついに独立をするためです。
実は結婚式の1ヶ月後、
ヨメが妊娠していることが発覚。
ここからはよくお話をしていますが、
心の弱い私は子供が生まれてからでは
守りに入ってしまうと思い、ヨメに
「子供が生まれてもメシが食えなかったら
 会社員に戻りるのでチャレンジさせてください」
とお願いします。
そしてそこから会社をやめて、
何のビジネスをやるか考えはじめました。
でも、
これも実は完全に自分の必勝パターンでした。
そんな変わった状況で独立に
踏み切る人はほとんどいませんから。
そんな時こそ、
自分の能力が発揮されると
直感的にわかっていたんです。
ヨメの親戚一同がヨメに
「おい!大丈夫なのか!」と
連絡してきていたらしいです。
そりゃそうです。
結婚して1ヶ月、しかも妊娠している。
おまけにヨメの親戚一同、
愛知の豊田市在住で
トヨタに最も恩恵を受けた世代。
「独立?え?バカかな?バカなのかな?」
というレベルで
私の行動が意味不明だったんだと思います。
なぜそんなリスクの高いことをするのか。
会社を経営している自分の両親は
きっとこの気持がわかってくれると
思っていましたが、
なぜか自分の両親も私ではなくヨメに
「おい大丈夫か?」と連絡していたようです(笑)
ヨメの友人は
「あんたのダンナはイカれてる!」
「何考えてんの?最低!!」
とみんな口を揃えて言ったそうです。
しかしこれらはすべて、
冗談抜きで逆に褒め言葉にしか
聞こえませんでした(どんな耳だ?)。
「うまくいった時にネタになるな」
と思っちゃうんです。
ここからは以前もお伝えしましたが、
会社を辞められたのは2ヶ月半後、
2週間タダ働きをして後進を教育し、
1ヶ月でホームページやら
何やらの独立準備して独立。
人間死ぬ気になったら
1ヶ月でなんでもできると思います。
5ヶ月後、長男誕生。
その時には何とかギリギリメシが
食えるようになっていました。
●最後に・・・
さて、
長々としょうもない過去を振り返ってきました。
400号記念とはいえ
お付き合いくださりありがとうございます。
なぜこんな長くてしょうもない話を
させていただいているかについて、
最後にちょっと触れたいと思います。
これは、
津久井がなぜロゴデザイン会社をやっているか、
なぜデザインやブランディングの仕事をしているか、
ということに実は密接に結びついています。
普通コンプレックスだった私が
手に入れたものがあります。
それは、
「表現力」という本質的な力です。
小学生時代、中学生時代、
普通コンプレックスを持ちながらも
自分が理解してもらえないことを
人のせいにしていました。
しかし、
自分から表現することができれば
実は人から理解し存在を認めてもらえる、
ということがわかりはじめます。
そこからは、
「ではどう表現すればより理解してもらえるのか」
ということを無意識的に考え、感じはじめます。
それが
いつの間にか表現力になったわけです。
このように、
辛い経験や自分の弱さなどから、
人は何かしらの力を手に入れていると
言われています。
「コアスキル」というやつです。
私のコアスキル「表現力」は
「デザイン」という手段を使って
さらに発揮されるようになりました。
デザインだけではありません。
「言葉」「文章」も同様です。
そして
このコアスキル「表現力」を
自分のために使うのではなく、
お客さまの課題解決のために使う、
こういったことをビジネスにしています。
その中でもロゴマークは、
存在感、存在価値を表すシンボルです。
お客さまの会社が、商品が、サービスが
確かに存在することを示すものが
ロゴマークです。
存在感のなさに
コンプレックスを感じた人間は、
お客さまのビジネスの存在感、
存在価値を示すことを仕事に選んだわけです。
これが、
ビズアップという会社の最も強いUSPです。
我々をパクる競合が出ても
絶対に負けない自信があるのは、
このUSPがあるからです。
これはパクリ企業では
絶対に持ち合わせていません。
「生き様だけはパクれない!(by 津久井)」
繰り返しますが、
デザインと文章、言葉と画(え)、
このメルマガでは何度も登場しましたが、
この2つについて私が語れるのは、
自分の存在感、存在価値を示すために
必要なスキルだったからです。
それを自分のためではなく
お客さまのために使っている。
つまり、
私たちの仕事はこう
言い換えることもできるわけです。
「言葉とデザインで
 お客さまの会社を表現し、
 存在感、存在価値を示す仕事」
ロゴだけでなく、
パンフレットやホームページ、
名刺などのお仕事はすべて
この価値観でやっています。
ふ〜、長い!(すんません!)
だいぶ長くなりましたが、
そろそろ終わりにしましょう。
「この会社に他の仕事も頼みたい!」
と思ってくださったら、
遠慮なくこちらから
ご相談ください(最後は営業かい!!)
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今回はここまでです!
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津久井
好評いただいてます。
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投稿者プロフィール

津久井 将信
津久井 将信
ロゴ専門デザイン会社ビズアップを2006年に創業。

かつてバンドで大手レコード会社よりCDリリースするも、大事なライブ当日にメンバー失踪、バンドは空中分解。その後「社長になりたい」と思いすぎてヨメの出産5ヶ月前という非常識なタイミングで、各方面から非難を受けながらも独立、5ヶ月でビジネスを軌道に乗せる。

2009年から毎週書きつづけているコラムでは、ブランディングやデザイン、クリエイティブについてかなり独特な視点で切り込む。レインボータウンFMでパーソナリティも務めている。

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