ロゴコラムLogo column
こんにちは。
ロゴ作成専門ビズアップ 津久井です!
https://www.biz-up.biz
さて、
このメルマガを書いている今は
まだ3日(水)です。
実は明日から
海外研修で香港に参ります。
なので早めにメルマガを執筆。
海外は実に
15年ぶりくらいに行きます。
パスポートも切れていたので
つくりなおしました。
15年前は
中国の青島(チンタオ)に行ったなー。
いろいろと衝撃的でした。
当時勤めていた会社の
青島にある支店(印刷工場)に
研修で行ったのですが、
私が行っている1週間の間に
2人クビになりそのうち1名は
工場長でした(汗)。
他にも
配達に来て勝手に事務所の新聞や雑誌を
読みふけり3時間くらい帰らない
郵便配達員とかいたなー。
15年ぶりの海外、
果たしてどんな経験ができるのか。
デモは大丈夫なのか??
来週のメルマガが届かなかったら
なにかあったと思ってください(笑)。
さて、
本日のお話は超長いです。
ですので、
3時のおやつ休憩のときにでも
お読みいただくことをオススメします。
ビズアップはこの9月で14年目
(法人として13期目)に突入しました。
本日は果たして面白いかわかりませんが、
ビズアップの企業から6年目くらいまでのお話を
ストーリー仕立てでお届けしたいと思います。
できる限り読み物として
面白いなと感じていただけるように
がんばってお話してみたいと思います。
●
よくお客さまや知り合いの中で
私やビズアップのことを
「スマートで事業がうまく行っていて
順風満帆な会社(社長)」
という印象を持たれている方に
お会いすることが少なくありません。
しかし、
実際は私も人並みに(?)無様でかっこ悪い
社長人生を歩んでいます(人並み以上かも)。
つらく苦しいこともたくさんあります。
もしかしたらそういうことのほうが
多いかもしれません。
実は私にとってこの時期というのは、
これからも決して少なくはないであろう
苦しいことやつらいことに打ち勝つために、
創業当時の昂ぶった気持ちを思い出す
大切な時期でもあります。
それにしても
人はなぜ起業するのでしょうか?
もちろん
すべての人が起業したいわけではないですし、
起業したい人のほうが少ないでしょう。
人間はそもそも良い悪いにかかわらず
安定を求める傾向があります。
その安定を捨てて
起業という荒波に旅立つ人々は、
起業を目指さない人の目にどのように映るのか。
起業を経験している創業社長は
意外とこの視点を持つことができず
イメージが湧かないものかもしれません。
高度経済成長期に起業することを
「脱サラ」と呼んでいたことには
大きな意味があります。
「脱サラ」はサラリーマンでいることのほうが
安定していて幸せな人生を送ることができるのに、
その「賢い」選択をせず「権利」を放棄する、
おそらくは
そんな意味を含んでいました。
他の起業家がどうかしりませんが、
私が起業した理由はいたって個人的でした。
「自分の価値を証明したい」
「人に認められたい、尊敬されたい」
という
極めて自己顕示欲の強い理由こそが
私の当時のモチベーションでした。
今ではさまざまな理由や裏付けから
ロゴやデザインの仕事は天職だと思えるのですが、
起業当初はどちらかというと
誤解を恐れずいえば「商材は何でもよかった」
というのが本音かもしれません。
2006年4月1日(土)。
エイプリルフールの日に私は結婚しました。
エイプリルフールですから、
いまだにちゃんと結婚できているのか、
この結婚はウソだったのではないかと
感じることもなくはないですが(笑)、
この結婚が
私の人生の転機となったことは
間違いありません。
当時の私は2回の転職をし、
3社目に在籍中でした。
その会社(P社)に入った理由は
「起業させてもらえるかもしれないから」
でした。
P社の取締役に私は、
「起業したいならうちに来い。
2年で上場するから勉強になるし、
ストックオプションも手に入り開業資金になる」
と言われました。
結局はこれは単なる口車だったとあとで分かります。
が、
とにかくこのころから起業することを念頭に
日々仕事や勉強をしていました。
そして入社しておよそ半年で結婚、
その翌月には妻が妊娠したことがわかりました。
私は妻にうれしい素振りをしながら、
心の中では「やばい!」と感じていました。
もちろん
うれしくなかったわけではありません。
しかし、
私は自分自身が決して
強い人間だとは思っておらず、
子どもが産まれたら守りに入ってしまい
起業はできないだろうと感じていたのです。
1ヶ月ほど悶々と悩みつづけました。
「やっていけるんだろうか」
「失敗したらどうしよう」
「でもここで起業しなければ一生しない気がする」
悩むだけでは解決しないこの自問自答を
何度繰り返したかわかりません。
その都度、
起業をしたほうが良い理由を自分に投げかけました。
当然ながらその「良い理由」とやらは
「自分の都合の良い理由」にほかなりません。
その中のもっとも都合の良い理由を思いついたとき、
起業をする決心がつきました。
それはこんなものでした。
「これはきっと、
生まれてくる子どもがオレに期限付きで
チャレンジしろと言っているんだ!」
どこをどう切り取ったら
そんな超曲解ができるのかわかりませんが、
この考えが自分の背中を大きく押してくれました。
ヨメには、
「子どもが産まれてもご飯が食べられなかったら
会社員に戻るのでチャレンジさせてください」
とお願いしました。
ヨメの回答は
「どうせ止めてもやるんでしょ」
でした。。。
ヨメの両親は愛知県豊田市に住み、
トヨタ自動車で働いていました。
今はすでに定年退職しましたが
言うなればトヨタに一番恩恵を
受けた世代かもしれません。
・夕方6時には仕事から帰って家にいる
・「明日休んじゃおっかな」というノリで前日の夜に有給を取る
そんな人でしたが
年収は1000万以上ありました。
義父からしたら
私の行動は意味が不明なわけです。
「あれ?うちのムスメ妊娠してるよな?
もしかして旦那はバカかな?バカなのかな??」
と思ったことと思います(笑)。
ちなみにヨメの友人も全員口を揃えて
「人でなし」
「頭がおかしい」
と私をディスっていたそうです。
まあ、そりゃそうですよね。
そういえば以前、
鳩山由紀夫元首相が
「国民の平均年収って1000万くらいですよね」
と言って
大ブーイングを受けたことがありますが、
義父のみならず
当時の義父世代のトヨタの社員は
それに近い感覚を持っていても
不思議ではなかったと感じます。
しかしそんなことは
もはやこの日本では少なくとも
数十年は起こりえないでしょう。
義父はほぼ毎日のように
ヨメに「おい、大丈夫か?」と
電話をしてきていたようです。
私も義父と同じ立場だったら
同じことをするかもしれません。
ちなみにうちの両親も
私ではなくヨメに「おい、大丈夫か?」
と連絡してきていたそうです(笑)。
さて、
2006年4月の結婚式には
P社の役員5名が総出で出席、
社長に至っては主賓の挨拶で私に対し
3階級特進の年俸120万アップという
サプライズ人事を行うほどでしたが、
当の私はその2ヶ月後の2006年6月には
会社に辞表を出すという薄情ぶり。
それでもお世話になったし今後の関係もあるし、
「キレイに辞めたい」と思っていた私は
退職まで2ヶ月半を費やしました。
最後の2週間は
「早上がりさせてもらう」という条件で
部下の教育のためにタダ働きをしました。
朝8時に会社に行き昼の2時まで仕事をし、
その後は自宅で起業の準備です。
しかし、
人というのは不思議なもので
ある決断をするとそれが本気なのか、
覚悟を試すような試練ががいくつか起きます。
私の場合もいくつかそれが起こりました。
ひとつは
私をP社に引き込んだ取締役に
「津久井くんは起業しても絶対失敗するよ」
というような意地悪なことを言われました。
これは覚悟が中途半端な人にはおそらく
意外と響く言葉です。
ましてやその取締役はP社以外にも
自分の会社を持っている人で、
私からしたら起業に成功した大先輩です。
取締役の言葉がなぜ
心配や親切心ではないと言い切れるかというと、
その取締役はさわやかな身なりとは裏腹に
たくさんのウソを私についていたことを
知ってしまっていたからです。
どうでも良いことから腹の立つことまで
いろいろありましたが、
少なくともその取締役が
信用に足る人間ではないということは
わかっていました。
また私は
自分で言うのもどうかと思いますが
仕事がめっちゃできました。
取締役は私に1指示出せば
10になって返ってくることを
わかっていました。
私を手放すことによって
自分が大変になることが
わかっていたのです。
これらの事前情報から、
覚悟が決まっていた私にとって
取締役の言葉に腹は立ちましたが、
不安を煽られるようなことは
ありませんでした。
ちなみに起業して数年経ったときに
その取締役から電話がありましたが
無視しました(汗)。
留守電には
「久しぶり~。すごい順調そうだね~。
電話ください~」
というパリピっぽいテンションの
メッセージが入っていましたので、
正直「は?」と
小籔千豊ばりのツッコミを
心の中でしたくらいです。
話をもとに戻しましょう。
実は起業を決意した時点では
まだどんな商材で起業するかを
決めていませんでした。
先ほどお話したとおり、
自己顕示欲の塊だった私にとって
商材はあまり関係ありませんでした。
そんな中、
独立のために2つの収入源を計画をしていました。
ひとつはあるビジネスの
フランチャイズオーナーを探すお手伝い。
もうひとつは、
あるネットのコンテンツを持っている方の
そのコンテンツを流行らせて収益化するお手伝い。
どちらもP社のときに開拓した人脈でのご縁で、
P社にいるときから比較的この2名の経営者に
かわいがってもらっていました。
彼らはどちらも
「早く会社を辞めて独立して仕事を手伝ってくれ」
と言っていました。
私としては
期待されていることで自己顕示欲が満たされる上に、
独立後の安定した収入源になる可能性が高く、
とてもありがたいと感じる言葉でした。
しかし、
収入源は3本はほしいと常々考えていた私にとって
どうしてもあとひとつ考え出す必要がありました。
まず、
私にはお金がありませんでした。
なので、
・在庫を持つ必要がない
・人件費を変動費化できる
こんな商材が良いと思っていました。
また、
私自身は独立のための勉強として
ひたすらにマーケティングを学んでいました。
私の学んでいたマーケティングには
「羊の群れにオオカミを放つ」
という言葉があるのですが、
まさにそんな「羊の群れ」と呼べる業界は
どこかも合わせて考えていました。
・在庫なし
・人件費変動費化
・マーケティングが弱い(羊の群れ)
この3条件を満たすのが
なんと私が新卒から6年間身を捧げた1社目の業界、
デザイン業界だと気がつくのにさして時間は
かかりませんでした。
そこからさらに発展し、
「デザインの中でもさらに専門特化できるとしたら?」
という質問に、
ある朝散歩中の私の頭の中に
「ロゴマーク」
という
言葉ともイメージとも言えない
「感覚」が降りてきました。
P社をまだ退職する前の話です。
朝の散歩から自宅に戻り、
急いで支度をしてP社に出社しました。
やることはただひとつ。
ネットでのロゴの市場調査です。
ロゴマークであれば在庫を持つ必要がなく、
仕事も案件単位で受けてくれるフリーランスが
いる業界なので変動費化もできる。
あとはこの業界は果たして羊の群れなのか。
ネットを見た結果は予想通り羊の群れでした。
直感が確信に徐々に近づいていく感覚。
こうして後に天職とも呼べる
ロゴのサービスが誕生しました。
「無料提案」も
すでにこのときに思いついていました。
そこで起きたのが
さらなる「覚悟」を試す試練です。
2社ともでした。
私がお手伝いをすることで
収益源にしようと考えていた2社とも、
結局契約には至りませんでした。
コンテンツ運営を任される予定だった会社は、
私がそのコンテンツの乗っ取りを企んでいると
痛くもない腹を探られた上契約できず、
フランチャイズオーナー探しの
お手伝いをする予定だった1社は、
契約書が足元を見るような人を馬鹿にした
内容のものになっていました。
したがって
こちらも契約には至りませんでした。
今こうして14年目に突入する会社を
このときにつくることができた
ということを考えると、
この2つの会社との出来事は
本当に「覚悟を試すための試練」だったと思います。
私がビビってしまって
足元を見るような内容の契約をしてしまっていたら、
おそらくはビズアップという会社はなかったでしょう。
そもそも
人の商材を売らせてもらうという
虫の良い話そのものが逃げの発想で、
覚悟を試されても仕方ありません。
もちろんスーパー営業マンを目指している人は
それで一向にかまわないと思います。
それ(人の商材を売る)こそが仕事です。
私の場合は
「収入の確保」というなんともな理由ですから、
試されるのも当たり前でした。
かくして図らずも
「ロゴマーク」の事業だけが残ることになります。
2006年8月、
正式な退社日も決まりいよいよ独立です。
この時点では
ロゴのサービスを開始するための準備は
何ひとつできていませんでした。
たとえばホームページ。
お金がないから人に頼むわけにも
いきませんでした。
そんな中真っ先に取り組んだのが、
自社(ビズアップ)のロゴをデザインすること。
ビズアップのロゴ自体は
7年前にマイナーチェンジしましたが
日の丸に指のモチーフはこのときからのものです。
その後、
9月の頭までにブログを利用して
自作でホームページをつくりました。
ちなみにここでお断りしておくと、
私自身は実はデザイナー出身ではありません。
デザイン業界にいるときは
ずっと営業兼ディレクターという
ポジションで仕事をしていました。
Illustratorなどの
デザインソフトを独学で覚えていたため、
P社やその前の会社では実際にデザインを
つくったりもしていましたが、
せいぜい
小奇麗なレイアウトを組む程度の実力で、
ましてやホームページの作成など
やったこともありませんでした。
ロゴのサービスをはじめるのはいいとして、
信用してもらえるような実績もゼロでした。
実績がないことを補うために、
さまざまな企業さまに
「完全無料でロゴをつくらせてください。
限定5社です。そのかわり感想文を書いてください」
という未承諾広告を送りまくりました。
当時はメールリストを買う
お金などありませんから、
ロゴがなさそうな会社を目視で探して、
そのメールアドレスをひとつずつ
コツコツ収集し連絡を取りました。
そうして5つの実績をつくり
ホームページにそれを掲載。
ここまでの準備ができたところで、
ネットの広告に出稿しました。
ここが勉強してきたマーケティングの
腕の見せ所でした。
しかし、
結果は散々なものでした。
ロゴの依頼はほぼ皆無に等しいものでした。
もしかしたら
これも試練のひとつかもしれませんが、
ここで諦めていたらやはり私は会社員に
戻っていたことでしょう。
私は自身のマーケティングの師匠とも呼べる
前々職の上司に連絡を取りました。
私の広告をみた元上司は
「これじゃ注文はきいひんで」
という関西弁のメール文面とともに、
見本となるような
広告を簡単につくってくれました。
ほんの一瞬です。
ほんの一瞬だけ、
「オレは何を勉強してきたんだ・・・」
という
ショックでかつ情けない感情が頭をもたげましたが
覚悟が決まっている人間はそんな感傷にいつまでも
浸っているということを選択しないものです。
すぐさま私は
「この広告をそのまま使わせてください!(タダで)」
という返信メールを書いていました。
ほどなくして「ええで」という3文字が
メールで返ってきたときにはすでに
広告のセッティングは終わっていました。
それはまさに魔法のような広告で、
実績もほとんどない、ホームページも
デザインが冴えない、そんな会社に
依頼が日に数件舞い込むようになりました。
この時が2006年の8月の末。
なんと、
起業すると決めてから3ヶ月、
起業の準備に取り掛かってから
たった1ヶ月のできごとでした。
こうしてビズアップは
会社としてスタートを切ったのでした。
覚悟が決まっている人間にとって
1ヶ月という時間は十分なものなんだ、
そんなふうに私は今も思います。
●
2006年9月、起業の準備が済み
実際に仕事を受けはじめたところで
一度派遣の営業マンの仕事をします。
収入確保が一番の目的でした。
また、
営業にこだわった理由は
結果さえ出しておけば空いた時間で
何をしていても怒られないと考えたからです。
さらに派遣であれば
残業もなくきっちりと定時で上がれます。
私は営業で求められた結果を出しつつ
(たいして難しいものではありませんでしたが)、
空いた時間ですぐに喫茶店に入り、
ビズアップの仕事をしていました。
19時の定時を迎えると、
すぐに自宅に帰って食事、風呂、
そしてまた夜中までビズアップの仕事をしました。
派遣の営業マンの仕事は2ヶ月限定の募集でした。
ビズアップのテストマーケティング期間には
うってつけでした。
2ヶ月後、
「正社員になってほしい」
という
派遣先からのありがたいお誘いを
丁重にお断りして、
ビズアップ1本で生きていくこととなります。
生活はカツカツでしたが、
なんとなくではありますが
徐々に手応えを実感できるようになりました。
ビズアップはロゴの受注は
実は起業当初から比較的順調でした。
しかし、
契約してくれるデザイナー、
つまり仲間になってくれる人が
はじめはなかなか集まりませんでした。
「今日の夕方5時にお客さまから
修正指示が入るから待機していてね」
と朝電話で伝えたのに、
夕方5時に電話したら
「もう外で呑んでいるので今日は無理」
というデザイナーとか、
パソコンがウィルスに
やられていたのかなんなのか、
同じメールが
20通くらい送られてくるデザイナーとか、
大手広告代理店でアートディレクターを
やっていたという実績の持ち主なのに、
上がってきたロゴデザインが
四角の中に「?」が描いてあるだけで、
ロゴと呼ぶのもはばかられる、
とてもお客さまに提出できないものを
提出してきて、
「これじゃ提出できません」
と伝えると、
「でもお金はもらえるんですよね?」
とか言ってくる自称デザイナーとか。
今思うと珍獣博物館のようでした。
このままではまずいと思い、
神頼み的にダメ元でなりふり構わず
利用したのが、当時流行していた
「ミクシィ」
でした。
SNSですから、
下手な書き方でデザイナーを募集したら
槍玉に挙げられるのではないか、という
不安があったことは確かでした。
しかし、
前述のようになりふり構っている
場合ではありませんでした。
その結果。。。
槍玉に挙がる心配どころか、
かけがえのない人たちが
集まってくれました。
そこで集まってくれた人は、
後のスタッフになる人や、
今でも
ビズアップの仕事を請けてくれている、
そんな人たちでした。
私の大好きな言葉に
「武器は走りながら拾え」
というものがありますが、
まさに走りながら武器を拾った瞬間でした。
起業から5ヶ月後の2007年1月、
3,920gという超巨大児として
長男が誕生しました。
その時には
なんとか自分と家族の食い扶持くらいは
稼げるようになっていたので、
「会社員に戻る」という契約を
履行せずにすんだわけです。
いまでも私は思います。
私を社長にしてくれたのはおそらく長男だろうと。。。
さて、
なんとなく軌道に乗りつつあるビズアップでしたが、
次のステップとしては「人を採用すること」だと
考えていました。
当時読んでいた本に感銘を受けたのですが、
その本には「赤字でも人に任せろ」といった
趣旨のことが書いてありました。
人を入れようと思った時に
まっさきに顔が浮かんだ人間が
契約のデザイナーの中にいました。
当時の自分は冴えていて、
「必要なタイミングで必要な人が現れる」
が
それまでの人生経験からの持論としてあったため、
自分から声をかけることをあえてしませんでした。
ビズアップをはじめて初の年末、
少ないながらもデザイナーを集め、
居酒屋でささやかな忘年会をやったとき、
なんと、その人間のほうから、
「ビズアップで雇ってほしい」と
言ってきてくれたのです。
私はそれを聞いて、
すぐにお金を調達する準備をしました。
2ヶ月後、融資もおり
晴れてはじめての事務所を出します。
6畳程度のワンルームでした。
創業から半年経っていました。
この時は前述のように、
まだ自分の食い扶持分しか
稼ぐことができていませんでした。
なので、
人を入れてお給料を出したら
自分の生活費が足りないという状況でした。
しかし不思議なもので、
スタッフがひとり入ると
きちんと売上がついてくるのです。
「そういうものだよ」と
先輩経営者には聞いていたのですが、
本当にそうなったのには驚きでした。
結婚し、
子どもも生まれ、
独立して事務所を構え、
社員が入社し。。。
自分は幸せ者だと感じ、
毎日の大きな充実感をこのときは
得ることができていたと思います。
その後も、
同士と呼べるほどの仲間が
契約デザイナーとして数名現れ、
ワンルームの事務所は半年で引き払い
少し広い物件に「合同事務所」をつくりました。
仲間が増えて成長していく実感を得、
ちょうど1年経ったこともあり
個人事業主から法人化するなど、
当時は今思い返すと
怖いものなしだったように思います。
もちろん、
細かいピンチはたくさんありました。
でも、思い返すと概ね順調に
仲間も仕事も増えていたと思います。
●
ただ、当時の私は
いまだ発展途上にある今の私から見ても
怖いくらい傍若無人なところがあり、
仲間が増えれば
それだけ問題も増えるような状況が
訪れるようになってきました。
なにせ、
ひどいこともスタッフに
たくさん言っていたと思います。
3年目くらい、
社員が5人くらいのころでしょうか。
「うちはベンチャーなんだ!
そんな仕事ぶりじゃうちの会社は死んじまうぞ!」
「凡人はいらねーんだよ!ベンチャーなんだぞ!」
「なんでやらねーんだよ。考えなくていいからやれよ」
「考えてやらねーから失敗すんだよ!よく考えろ!」
「責任感なさすぎるだろ!」
とか(ほんとすいませんでした)。
そもそも褒めることが私はいまだに苦手です。
そして、
「褒められないと仕事ができないようでは本物ではない。
褒めてくれる人がいなくなったらどうするんだ?」
という
親から譲り受けた「星一徹的価値観」で
メンバーのみんなと接していました。
目標達成した後も褒めるどころか、
「勝って兜の緒を締めよ」
とか言っちゃってました
(母親によく言われていた)。
ただこれは
親からそういう教育を受けたからだけが
原因ではありません。
当時の自分はスタッフを
鼓舞していると思っていたのですが、
こういった強い言葉で仲間に接するのは、
たいていその時の自分に不安感がある状況だったと
今思い返すとわかります。
不安を、怒りを用いて打ち消そうとした時の
そのターゲットがスタッフだったのです。
スタッフは
「足りない」とか「できていない」とか
そんな言葉ばかり言われているようなもので、
おまけに、
・怒り ≒ 正義
の図式でスタッフを怒りますから
(正義ほど正義でないものはないですね)、
スタッフ側は
「自分が悪い、津久井さんが正しい」
「だけどどうしたら良いかわからない」
と感じていたことと思います。
そうした状況、心理の行き着く先は
結局は「辞める」となります。
しかも辞める前には必ずと言っていいほど、
「仕事のパフォーマンスが極端に落ちる」
ということがあり、
そこでまた
スタッフの足りていないパフォーマンスに対する
「正義という名を借りた怒りの皮を被った不安」
という
ネガティブ三層構造による言葉のひとつひとつが、
吸引力が落ちないただひとつの掃除機以上の
負のサイクロンを巻き起こし、
辞める以外に脱出方法のないブラックホールに
仲間をいざなってしまうのです。
そんな状況ですから
辞め方も決して良い形ではありませんでした。
今思い返すと。。。
あ~、謝りたい~。
当時の人たちに謝りたい~~。
そして、
7年前に大きなできごとが起こります。
当時の営業担当の人間が
朝のミーティングで私と大げんかとなり
そのまま会社を出て行って辞めてしまいました。
さらにその後、
ロゴのご依頼数がふるわず減っていく不安がある中、
当時のNo2とNo3がそろって辞めてしまいます。
多い時には8人、9人いたスタッフが
私を入れて半分の4人になってしまったのです。
このころ、
人前では一切泣かない私は
自分を奮いたたせる音楽をかけ、
誰も見ていないところで泣きながら
夜中や土日に仕事をしていました。
●
しかし、
完全に孤独だったわけではありません。
残ってくれた3名の仲間が
一緒に奮起してくれたのです。
彼らがいたから「まだやれる!」と自分を
奮いたたせることができました。
もちろん、
その後すぐに状況が改善したわけではありません。
受注数が減っている状況でしたので、
ロゴディレクターの中でただひとり残ってくれた
スタッフの板橋(その後のNo2)が
「僕ひとりでロゴを回します!」
と言ってくれ、
ものすごく頼もしかったのですが、
そのタイミングで
ホームページをリニューアルしたせいか、
ロゴの依頼数が突然爆発。
会社のために夜中まで無理をしてくれた板橋は
お客さまとの電話中に顔面が痙攣し、
両手が麻痺するという事態に見まわれました。
タクシーで脳神経外科に行き、
板橋を置いて先に事務所に戻るさなか、
いろいろなことが頭をめぐりました。
会社のこと、
お客さまのこと、
家族のこと、
そして何より板橋の体のこと。
また泣きそうになりながら事務所に戻ると、
一通のメールが来ていました。
募集をかけていないディレクターの
採用の申し込みでした。
そのメールを見ると
デザイナーとしてもディレクターとしても
実績が十分にある上、
ビズアップのサイトを隅から隅まで見て
津久井の考えにも共感をしてくれた上で
「ビズアップに入れてほしい」という、
まるで
ラブレターのようなメールがだったのです。
「必要なタイミングで必要な人が現れる」
「これだ」と思い、
すぐに入社をお願いしました。
「こういうことってあるんだな、やっぱり」
とものすごく感じました。
そのディレクターが
入社して1週間後のことです。
仕事中にそのディレクター宛に
病院から電話が来ました。
そのディレクターの奥さんが
自転車に乗っている時に車にはねられ、
安否不明という連絡でした。。。
その社員はすぐに病院に向かいました。
状況が状況だけにこちらから連絡を
入れるわけにもいかず、
ただひたすら
彼からの連絡を待っていました。
その日の夜遅く、
なんとか命に別状はないという
連絡がやっと来てホッとしました。
しかし、奥さんは
全身打撲、両手両足腰骨複雑骨折で
半年間の入院を余儀なくされました。
そのスタッフの家は会社から
1時間半かかるところにある上に5歳の子ども
(私の長男も当時5歳)がいることから、
「このまま仕事はつづけられない」
と連絡が来たのは
事故の数日後のことでした。
そして、
入社そのものをなかったことにし
そのディレクターは去って行きました。
その後、
人を入れることに正直怖さを
感じることもありました。
お金をかけて募集広告を打ち、
来てもらっても即戦力にはならないとなると、
仕事が減っている中利益はどうなるのか、など。
でも、
この時の不安は、以前とは違って
怒りに転嫁することはありませんでした。
そのあたりからでしょうか。
自分自身が少しずつ変わってきたのは。
そしてやっぱり
「必要なタイミングで必要な人が現れる」。
このタイミングで現れたのは
今現在ロゴチームのリーダーを務める林です。
今は多くのそんな人たちに
支えられて会社をやっている実感があります。
他人と過去は変えられない。
変えられるのは自分と未来だけ。
残念ながら
No2の板橋は2016年の今時期に
退社してしまいましたが、
今でも付き合いはつづいており、
月1から2ヶ月に1回くらいは
ふたりで呑んでいます。
傍若無人だったころに比べ
今は怒るということがほとんどなくなりました。
でも不安からメンバーのみんなに
何かしらのプレッシャーをかけて
しまっていると感じることはまだまだあり、
「本当にまだまだかっこわりーな」
と思うと同時に
「会社は社長の器次第」だというのは
本当なんだなと実感するようになりました。
私はこの13年間で
「すごい良かったことは??」
と聞かれるとあまりありません。
起業時の毎日の充実感くらいでしょうか。
ここでお話したトラブルや問題以外にも
いろいろなことがありました。
そしてこの3年間も
まだここではお話できない失敗や
辛いことがいろいろとありました。
では
そういったさまざまな問題が起こったときに
「起業時くらいの強い覚悟があったか」
と問われると
言葉をつまらせてしまう自分がいます。
おそらく、
自分が感じるつらさと覚悟の弱さには
相関関係があるのではないかと思います。
覚悟が弱い人ほど
物事をつらいと感じる度合いが大きい。
これは何も
経営者に限った話ではないかもしれません。
問題や悪いことは
いっぺんに起こることがあります。
たぶん、ほとんどそうです。
それに対して、
良いことはちょっとずつしか起こらない、
小さな変化しか生まないのかなと思います。
まるで、
幼虫がさなぎになり、
さなぎから蝶になるように、
ずっと見ていても
変化しているのかわからない、
でも気がついたら空を飛んでいる、
そんなのが
本当の「良いこと」の気がします。
まだまだ空を飛ぶには至ってませんが、
少しずつ積み重ねてきたものが
やっぱりあるんだな、
これが「良いこと」の正体なんだな、きっと。
さて。。。
最後は相田みつを風になってしました。
もっともっと語りたいこともあり、
いつか絶対に小説にしてやろうと
思っているのですが、
多くのお客さまやデザイナー、
そしていつもわがままを聞いてくれる
ビズアップのスタッフに感謝しつつ、
ひとまずお話はここまでに
しておこうと思います。
14年目を迎えるビズアップを
どうぞよろしくお願いいたします。
今回はここまでです!
津久井
好評いただいてます。
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投稿者プロフィール
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ロゴ専門デザイン会社ビズアップを2006年に創業。
かつてバンドで大手レコード会社よりCDリリースするも、大事なライブ当日にメンバー失踪、バンドは空中分解。その後「社長になりたい」と思いすぎてヨメの出産5ヶ月前という非常識なタイミングで、各方面から非難を受けながらも独立、5ヶ月でビジネスを軌道に乗せる。
2009年から毎週書きつづけているコラムでは、ブランディングやデザイン、クリエイティブについてかなり独特な視点で切り込む。レインボータウンFMでパーソナリティも務めている。
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