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2014年02月28日 メールマガジン 所感 【第221回】私が生まれてはじめて接した「社長」をご紹介します

2014年05月23日掲載開始

こんにちは。
ロゴ作成専門ビズアップ 津久井です!
https://www.biz-up.biz
今日ははじめに宣言をしておきます。
ものすごーーーく長い上に
デザインやブランディングとまったく関係ない話です。
先週のメルマガの「所感」よりも
どうでもいい内容かもしれません。
しかし、
あるタイミングの経営者の方には
多少はお役に立つ話でもあるかな、と思います。
3時の休憩などのタイミングで
のんびりと読んでください。
昨日は
とある友人と食事をしていました。
その人は
私が独立する直前に
仕事をお願いしていた会社の人で、
当時、
その彼はまだ23歳か24歳、
「バイト扱いでいいから使ってくれ」
と言って入ったその会社も社員6名で年商2.5億
というサイズだったそうです。
その会社が今では
年商20億、社員60名、
そしてその彼も若くして営業部長になっていました。
Facebookがきっかけで
久しぶりに再開し、
当時のことを話したりしていました。
順風満帆に見えるその会社も
やはり成長過程では紆余曲折があったということ。
まさに、
「成功者の告白」と同じだということでした。
「成功者の告白」をご存知でしょうか?
これは伝説のマーケッター
神田昌典さんが書いたビジネス小説です。
主人公が会社を辞め独立してから
会社の成長とともに起こるさまざまなトラブルを
どのように乗り越え成長していくかを描いています。
小説なのでフィクションではあるのですが、
ストーリーの展開は何人もの社長に
緻密にインタビューしてできあがったもので、
ほとんどの経営者が
このとおりのことが起こると口をそろえて言います。
さて、
私はというとこの本を独立の直前、
まさにその彼と仕事をしているころに
はじめて読みました。今から8年前です。
昨日の食事で
彼の口から「成功者の告白」という言葉が出てきた時に、
不思議と8年前の独立前のさまざまな過去が
重なったような不思議な感覚になりました。
8年前の私は
まだ経営者ではなかったわけですが、
それでもこの本を読んだ時に
ゾッとしたことを今でも覚えています。
なぜなら、
「成功者の告白」に書いてあるのは
まさに私の父親の会社にも完全に当てはまっていたからです。
急に話が飛びますが、今日は
なぜか私の両親の紹介も兼ねて(笑)
成功者の告白と両親の会社について
お話をしてみたいと思います。
まず、
先週のメルマガでもお話しましたが、
私の両親はわりと厳しい人でした。
その反面、父親は
・転職歴が25回くらいあった
・仕事も全然ダメダメですぐ会社を辞める
・毎日夜中まで麻雀をやっていて身体を壊して入院
・最後の会社もつづかなかったら
 生きていてもしょうがないので
 自殺でもしようかしらと考えていた
なんていう
おちゃめな(笑)一面も持っています。
会社を経営してからもすごく平たく言うと、
「人に厳しく自分に甘い」人でした(苦笑)
父親は
最後の転職で
「ここで続けられなかったら死のう」
と思ったそうです
(本当かどうか知りませんが笑)。
そんな折、
入社してすぐに会社の夏休みがあり。。。
当時すでに結婚していた母親と
千葉の海に泊まりで遊びに行ったそうな。。。
そして夏休みが明けても海から帰らなかったという。
「死のう」とまで思ったくせに
ここでもダメ夫だったんですね。
まあ、
これで母親と海で入水自殺でもしようものなら
太宰治も一目置くだろうほどの人間失格ぶりなわけですが。。。
おかんもおかんで、
そんな父親にハッパかけるわけでもなく
そのままにしていたらしいです。
夏休みが明けて数日後、
辞表をもって会社に出社したところ、
鬼のように厳しかった当時の社長が
怒鳴るどころか
「どうしちゃったの〜、つくいく〜ん」
と猫なで声を出して接してきたらしいのです。
それで
「これこそ本当に最後のチャンスかもしれない」
と感じ、急にやる気スイッチが入った父親は
この会社で5年間務め上げ独立します。
●
父親の会社ができたのは、私が3歳ころのことです。
私も記憶が曖昧なのですが、
父親は独立前にいた会社のビジネスを
のれん分けに近い形ではじめます。
業種は家庭配置薬業。
「富山の薬屋さん」と言ったほうが
わかりやすいかもしれません。
富山の薬屋さんは
フリーミアムの先駆けとも言える
すごいビジネスモデルで、
さまざまな薬が入った箱を
無料で各家庭に置いてもらいます。
そして、
営業マンが1〜3ヶ月に1回集金に行き、
使った分だけの料金をちょうだいしてきます。
はじめは自宅を事務所にして、
東京の練馬を中心に母親と2人ではじめました。
3歳の津久井少年は、
家で薬箱に薬を詰める仕事を手伝っていました。
当時は
仕入先のメーカーさんがものすごくよい支払い条件で
薬を仕入れさせてくれて軌道に乗せることができたそう。
景気も良い時期だったし人にもしっかりと恵まれていたんですね。
そのうち、
前の会社の同僚や後輩が父親の会社に入社してきます。
気心の知れた仲間たちが加わったわけです。
私が小学校に入る直前には
事務所を自宅から移し、
いよいよ会社らしくなってきます。
しかし、
ここで最初の問題が起きます。
私(7歳の津久井少年)が死にかけます。
●
成功者の告白には、
このこともしっかりと書かれています。
両親は
忙しくなってきた会社を切り盛りすることで
精一杯だったのかもしれません。
かまってもらえない子供や仲が悪い夫婦の子供は
無意識のうちに以下のような行動を取るそうです。
・グレる(悪いことをする)
・病気になる
なぜこのようなことになるか、
それは
・両親が協力せざるを得ない環境をつくるため
・子供のために時間を使わなければいけない環境にするため
と言われています。
当然、
子供ですから計画的にそんなことができるわけありません。
無意識の力というのはものすごい強力なんですね。
さて、
津久井少年の病名は重度の肺炎。
血液の数値は80〜90歳で
棺桶に片足突っ込んでるくらいのご老体でも
一人か二人いるかいないか、というところまで悪化。
学校は2ヶ月くらい休みました。
薬屋の息子が病気、ほとんどギャグです。
入院はしませんでした。
別に病院が薬屋の競合だからというわけではありません(笑)
当時のお客さまが紹介してくれた町医者の先生が
ものすごく優秀だったからです。
この先生の方針で
「この子は入院させちゃいけない。気力がなくなったらやばい」
ということで自宅療養をしていました。
当の津久井少年は先生の作戦がハマったのか、
自分の病気の重大さにまったく気づいていませんでした。
ずっと布団で横になっていなければいけないのですが、
おみやげなど一度も買ってきたことのない父親が
当時はやっていたゲームウォッチを買ってきてくれたり、
アニメソングのテープを買ってきてくれたり。
めったにないことだったので
ものすごくはしゃいだ覚えがあります。
本人は気楽なもんです。
そんな中、
病院の先生は長引く病状の解決策として
ものすごく強い抗生物質を飲ませる決断をします。
副作用が心配だという母親に
「でも、(命を)持ってかれたらしょうがねえだろ!」
と言ったといいます。
まあ、
私は自分でも頭がオカシイ部類の人間だと思っていますが、
今思うと当時の薬の副作用かもしれません(笑)。
総じて虚弱体質だった津久井少年は
その後もいろいろ迷惑をかけるわけですが、
ひとまず命だけは持っていかれずに済みました。
ちなみに病気になる何ヶ月か前に
母親とこんなやり取りがありました。
津久井少年「夕飯にビーフシチューが食べたい」
津久井母「そんなもん、クソ忙しいのに作れるか!」
肺炎の時に
夕飯で出てきたのはなんとビーフシチュー。
もう本当に死ぬと思ったのでしょう。
最後に旨いもん食わせてやろうという(笑)。
●
津久井少年が8〜9歳のころ、
父親の会社「太平薬品株式会社」は
従業員数も7〜8人になっていました。
そのうちの5人くらいが営業マン。
中には前述の元同僚や後輩もいます。
そして、
このころになると暗雲が立ち込めてきます。
気心の知れたはずの仲間が
父親に対して心を閉ざし、
まじめに仕事をしなくなります。
朝はみんなで会社の外にたむろし、
たばこを吸いながら父親の悪口をいう状況。
当然、
会社としての成長など望むべくもない状態。
父親も相当ストレスだったでしょう。
起業してから初の組織的試練。
それを救ったのは一人の新入社員でした。
父親は当時、
車にはまったく興味がない男でした。
なので
プライベートで遊びに行くときも
薬を積んだままの軽の営業車。
そして、
構えている事務所もとても立派な建物ではなく
古くてボロボロの木造家屋。
そんな中、
ピカピカのトヨタのマークツーを
乗り付けて面接に来た一人の男。
「本当にここか??」といった
怪訝な表情を浮かべながら入ってきたその男は
名前を「大谷(おおたに)」と言いました。
大谷さんは
同じ家庭配置薬業の仕事をしていた経歴を持ち
年は30手前くらいでした。
入社した大谷さんは熱い人でした。
「オレは一生社長についていきますよ!」
と大谷が言ってくれたと
喜んで母親に話す父親を今もよく覚えています。
大谷さんの影響は絶大で
まず父親は車をマークツーにしました(笑)。
もとからいた営業マンは
毎朝の儀式(たむろ)に大谷さんを呼びつけ、
「お前もこっち派になれ」といった
中学二年生マインド前回の派閥争いに
巻き込もうとしたそうですが、
大谷さんはきっぱりと断ります。
そして大谷さんは仕事ができる人でした。
会社の売上も伸びました。
また、
大谷さんは自分の後輩や元同僚など
見どころのある人間を会社に引きこもうとしました。
そういった人が2人くらい入ったころには、
たむろしていた営業マンは退社し
びっくりするほど全員いなくなっていました。
メンツがまるっきり入れ替わってしまったのです。
時代はバブル全盛ということもあり、
そしてできる営業マンが一気に増えた
(6〜7人くらいになった)ことで
会社は伸びに伸びます。
大谷さんひとりが入ったことがきっかけで、
どん底だと思われた太平薬品はV字で復活しました。
父親と従業員の仲もよく、
我が家にみんな遊びに来て酒を呑んで
場合によっては泊まっていく、
なんてこともしょっちゅうでした。
こういった会社が
丸っと生まれ変わってしまうようなことも
成功者の告白にはしっかりと書かれています。
●
成功者の告白にはこんなことも書かれています。
・あるタイミングで社長に愛人ができる
父親の「そのタイミング」も
本に書かれていたタイミングと
ドンズバで当たっていました。
確証はないのですが、
おそらく私が小学6年生から中学1年生のころに
父親に愛人がいたように思います。
母親との中も悪くなり
冷たい空気が流れていました。
私自身も
「新宿のLと言いますが津久井社長いますか?」
という思い詰まったような声の女性からの
電話をとったことがあります。
そして
しかるべきタイミングだったのでしょう。
私(13歳の津久井少年)がまた病気になります。
急性腸炎で入院しかけました。
一週間は断食の回復食のような
味のない重湯と味噌汁の上澄みしか
口にできませんでした。
学校も一週間くらい休みましたかね。
まあ、
この時は肺炎の時ほどではなかったのですが
42度の熱が3日くらいつづきましたからね。
病院で点滴をうける私を心配そうに見ている
両親の顔をよく覚えています。
仕事は可もなく不可もなく。
景気はバブルも崩壊に向かっていました。
第二創業とも呼べるタイミングで入った営業マンたちは、
ある者は残り、ある者は独立し、ある者は転職していきました。
新しく入った営業マンは
仕事はできるとは言いがたく。。。
会社の勢いはすっかりなくなってきていました。
そんな中、
第2の組織的試練(トラブル)がやってきます。
そのトラブルを起こしたのは、
会社のNo.2、大谷さんでした。
●
とあるお客さまからクレームが入りました。
「おたくの社員の大谷さんはとんでもない人だ!」
事情をお聞きすると
耳を疑うような話でした。
なんと、
大谷さんがお客さまに
「金を貸してくれ」と言ったというのです。
問い詰めてみると
なんとそのお客さまだけでなく
数人のお客さまに声をかけており
中には
本当に貸してしまったお客さまもいたそうです。
太平薬品株式会社は
決して給料の安い会社ではありませんでした。
安いどころか、
むしろ仕事が出来る人には成果報酬で
100万くらいの月給は出していました。
そして
大谷さんの奥さんは保険のセールスレディーで
ボーナスで100万円くらいもらうほどの人でした。
なのに
米を買う金すらない、ということでした。
電気やガスもひどい時には止められていたそうです。
原因は子供です。
子供に対しての見栄が半端なく、
高い私立の幼稚園に通わせ
ブランド物の子供服を着せ
高い塾に行かせてお受験をして。
稼いだお金をみな子供につぎ込んでいたのです。
お金がなくなってもそれを止めることができず、
感情のコントロールを失った大谷さん。
それで
お客さまに「金を貸してくれ」などという
とんでもないことを言って回っていたわけです。
そして、
大谷さんは会社を去ります。
私が高校生の時でした。
家族ぐるみの付き合いをしていた
太平薬品No.2の大谷さんが辞めると聞いた時の驚きは
私の中でも本当に計り知れないものでした。
そして
太平薬品は大丈夫なのだろうか、と心配になりました。
時はバブル崩壊後の不景気のまっただ中。
営業マンも仕事に対しての情熱を失った人ばかり。
会社の雰囲気は悪く、家では父親と母親の会社への
愚痴をよく聞くようになりました。
こんなこともありました。
新人を入れようということになり
面接に来た若い男を父親が大いに気に入り、
喜び勇んで家に帰って母親に
「あいつはいいぞ〜!」
と興奮しながら伝えたその新人が
1週間で飛ぶ(会社に来なくなる)とか。
太平薬品の仕事は基本的に
一日中車で営業なので、
自分の彼女を車にのせて仕事を適当にする、
なんていう新人もいました(こういうことは結局バレる)。
仕事はできないけど
一生懸命だから諦めずに育ててみようと
父親が懇切丁寧に教育をしていた新人は、
そもそも車の運転が下手でよく事故っていました。
次に事故ったら免許停止(≒クビ)というある日、
東京に雪が降りました。
父親は目をかけているその従業員に、
「いいか、雪だからな、ブレーキ踏むなよ」
と言いました。
スリップしたりスピンしたりするから、
ブレーキをかける時は気をつけろよ、
という意味だったのですが、
その人は本当にブレーキを踏まず、
前の車にオカマを掘り免許停止になりました。
大谷さんが辞めてからというもの、
反抗する社員がいるとか、
悪いことをする社員がいるとか、
そういったはっきりとしたトラブルではなく、
やる気がない、
稼げなくても暮らせればいい、
仕事なんて仕方なくやっているだけ、
こういう社員ばかりになってしまい
いつのまにか蝕まれていくような病気のような状態に。
またしても組織崩壊の危機でした。
何より、
当の父親自身もたいして
やる気があるように見えませんでした。
社長のくせに
軽く出社拒否症になってました(笑)。
会社はできてから15年くらい経っていました。
そして
ここで奮起したのは母親でした。
●
当時の母親はスーパーマンのような人でした。
朝5時に起きて風呂に入り、
出てから朝飯と私の弁当をつくり、
父親と私を送り出してから洗濯と掃除。
掃除機は
先端が細いノズル(隙間などに入るやつ)が
デフォルトの仕様になっていて、
じゅうたんや床を隅から隅まで掃除していきます。
母親にとってはノズルは消耗品。
毎日家中を掃除機の「ノズルがけ」するので
鉛筆のようにどんどん削れていってしまうのです。
そんな家のことをひと通り済ませて
10時までに会社に出社。
営業部長をしていた母親は
着いてそうそう電話をかけまくり
アポを取って営業車に乗って集金に。
夕方は6時半ころ買い物を終えて家に戻り、
1時間で夕飯の支度をして飯をくって後片付け。
後片付けがまたすごくて
キッチンを隅から隅まで毎日雑巾がけしていました。
これが
休みの日を除いて毎日何年も続いていました
(母親は営業以外に経理の仕事もしていました)。
さて、
当時の家庭配置薬業の業界は、
「営業は男」という迷信的、盲信的な考えが
はびこっていました。
太平薬品も例外ではなく、
母親を除いてはずっと男の営業マンを採用していました。
しかし、
やる気が無い男連中(父親含む)が
会社をどんどん蝕んでいく状況で
ある意味「男に見切りをつけた」母親が
営業は女性にすることを父親に提案します。
はじめは父親も抵抗していました。
しかし、母親の言うとおりなぜかダメな男ばかりが
集まってしまう状況で、他に打開策もありませんでした。
そこで父親は決断します。
父親は
東京の家庭配置薬業界にわりと顔が利く人で、
同業者を取りまとめる会の会長なども
一時期やっていました。
なので、
東京で太平薬品株式会社と言えば
わりと業界では知られていたのですが、
その太平薬品が
営業マンをみんな女性に代えているという話は
業界でまたたく間に知られるようになり、
「あそこも終わったな」
という評判が出回るようになりました。
しかし、
成果は目覚ましいものがありました。
業績はまた上昇しはじめました。
会社にも活気が戻りました
(戻ったというかおばちゃんならではの活気になった)。
「もうダメかも」
というピンチで何かが起き、
そのたびに組織がガラッと変わって
また成長をしはじめる。
「生まれ変わる」
という
言葉がもっともしっくり来るようなことが
本当に起こるんです。
こういったことも
成功者の告白にはきちんと書かれています。
さて、
長くなってしまいましたが、
最後に太平薬品株式会社と
両親のその後をお話します。
会社は結局30年つづきました。
しかし、
ちょうど30年目の2009年、
業績不振を理由に会社を売却しました。
家庭配置薬業界は衰退の一途。
業界一位の富士薬品(TVCMもしている)ですら
ドラッグストアを展開する状況。
「買ってくれる人がいるうちに売ろう」
とてもさびしい決断でしたが
会社を売却し、借金を精算して終了。
ちなみに
その2ヶ月後に業界二位が倒産。
もしもそのあとであれば太平薬品を
売却できなかったかもしれません。
なんというタイミング。。。
会社を売却したお金で
そこそこの現金を手にした両親は、
「もう一旗挙げたい」
と突然ベトナムに移住。
ハノイの日本大使館前で
日本人向けの居酒屋を開店しました。
利益は両親が老後の貯蓄をするには
十分すぎるほど出ていたようですが、
具合が悪くなって二年弱で帰国。
スーパーマンのおかんは
10kgくらい痩せて
ガリガリになって帰ってきました。
今は
父親は墓場、
母親はうなぎ屋でパートしています。
やっと落ち着いたようです(笑)
あ、ちなみに
おかんは今でもベトナムに戻りたいと言ってます。
スーパーマンです(笑)。女性は強いですね。
さて、
取り留めのない話にお付き合いいただき
ありがとうございました!
今回はここまでです!
津久井

投稿者プロフィール

津久井 将信
津久井 将信
ロゴ専門デザイン会社ビズアップを2006年に創業。

かつてバンドで大手レコード会社よりCDリリースするも、大事なライブ当日にメンバー失踪、バンドは空中分解。その後「社長になりたい」と思いすぎてヨメの出産5ヶ月前という非常識なタイミングで、各方面から非難を受けながらも独立、5ヶ月でビジネスを軌道に乗せる。

2009年から毎週書きつづけているコラムでは、ブランディングやデザイン、クリエイティブについてかなり独特な視点で切り込む。レインボータウンFMでパーソナリティも務めている。

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