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2021年02月05日 ビズアップのこと ブランディング メールマガジン 【第562回】少し恥ずかしく、アホほど長い自己紹介(私がなぜロゴの仕事をしているか)

こんにちは。

ロゴ作成専門ビズアップ 津久井です!
https://www.biz-up.biz

 

新コ□の陽性者、減ってきましたね。というかPCR検査の数が減っているんですけど。まあそれだけではなく陽性率もだいぶ下がっています。

にも関わらず、緊急事態宣言が延長になってしまいました。

世論の9割が延長支持、とメディアが報道していますが、はっきり言います。ウソだと思う。

私の周りには延長を望む人はいません。Twitterではアンケート機能がありますが、数字は真逆。延長反対が90%超。

もちろんバイアスがかかっていると思いますが、延長支持が9割ははっきりいってウソですよ。

少しずつ現状に違和感を感じる人が増えてきていると感じてはいますが、今のままでは大倒産、大失業時代は避けられないでしょうね。

メディアでは報道されませんが、ポルトガルではPCR検査による強制隔離は違法という判決がでています。

その他、PCR検査による新コ□の管理がなぜ正しく機能しないかはこちらをぜひご覧いただくとわかりやすいでしょう。

サッカー界のスーパースター、クリスティアーノロナウドもPCR検査は「クソ」と言っています。

【C・ロナウドも呆れた】コロナ騒動の元凶はPCR検査である理由 <仕組みと問題点を徹底解説>

大げさではなく、今は人類の危機だと考えています。

それは新コ□によって起こされるのではなく新コ□騒動によって起こされています。お願いだから一度自分で調べてみてほしい。

しかしなぜ私はこんなことをメルマガで訴えかける人間になってしまったのでしょうか?(苦笑)

その答えとなるかはわかりませんが、本日は自己開示の回。私の生い立ちから、なぜ今の仕事をしているかというところまでお話できればいいなと思っています。

自己開示というのは本当に重要で、商売であれば取りも直さず

「なぜこの人から買わないといけないのか?」

と同義だからです。

  • ウソつき
  • 何考えているのかわからない
  • なぜこの仕事をしているのかわからない

という人よりも、相手がどんな人間か、自分と合うのかどうかがわかったほうが仕事は成功しやすいと考えます。

ゴルフで仕事が取れるという理由はここにありますよね。

社長だけじゃないです。スタッフだってできる限り自分をわかってもらったほうが、つまり自己開示しているほうが私は良い仕事ができると考えています。ブランディングのひとつの形です。

というわけで、どのくらい興味を持っていただけているかわかりませんが、お話をしていきたいと思います。

前もって話しておきますが、メチャメチャ長いです。3時のおやつなどの時間にコーヒーでも飲みながらお読みいただくことをオススメします。

 

●はじめに −コンプレックスが存在する理由−

私はたぶん自分のことが好きです(照)。でも自分に自信があるほうかというとおそらくあまりありません。。。変な自己矛盾があるんですね。

ただ、自分に自信がないと言うわりに過去の恥ずかしい自分、弱い自分をわりと包み隠さずに話すほうです。セミナーなどで登壇する機会をいただくと、私は自己紹介だけで20〜30分費やします。

昔は採用活動の社員面接でも自己紹介だけで同じように時間を使っていました。今はいろいろな理由というか、それによって得られた結果から控えていますが。。。

自分に自信があるほうではない、とお話したくらいですから、過去の自分を自慢したくて話しているわけではありません。

それでも、自己紹介を聞いてくれた人はセミナーにしても面接にしてもその後の私に対する態度や評価が好転することが少なくありません。

なぜか。

それは、自分のコンプレックスもつつみ隠さずに話すことによって、心の深いところで共感してもらえる可能性が高くなるからです。

だから、コンプレックスは武器になります。

コンプレックスはその人の「why」です。コンプレックスはその人の人生でかけがえのないスキルを与えます。

さて、私のコンプレックス=行動の源泉は

普通コンプレックス

というものです。

「普通コンプレックス」がどのようにして自分に重要なスキルを与えたのか、それを独立までのストーリーとともに、普段セミナーで使用している資料を使ってお話します。

 

●普通がイヤで仕方なかった小学生時代

小学校時代のお話です。

子供のころの私は、自己重要度がものすごい高かったと思います。「ひとりっ子」だったからだと思います。

以前もメルマガでお話しましたが、私の両親はどちらかというと厳しいほうでした。

普通、ひとりっ子は甘やかされがちだと思われていると思います。しかし、我が家ではそんなことはなかったと思っています(わりと厳しいほう)。

それでも「ひとりっ子」は自己重要度に影響を与えるに十分でした。

なぜなら、「比較される相手があまりいない」からです。兄弟がいないと比較されづらいわけですね。だから自ずと自分の価値を高く見積ります。

また、両親が会社をやっていた関係であまりかまってもらえませんでしたが、かわりに近くに住む親戚や近所のおばちゃんなどにはかわいがってもらえていたことも自己重要度に影響があると思われます。古き良き時代の近所付き合いってやっぱりあったと思う。

そんなこんなで心のどこかで自分を特別だと思い込んでいるフシがあったように今考えると思うのです。

しかし、その状況は小学校に上がったころに変わってきます。同じ年齢の子どもたちがたくさんいる中で、自分が重要視されていないと感じはじめたのです。

そして当時の私は自分を表現することも下手でしたし、特に取り立てて目立つスキルや特技も持ち合わせていませんでした。

たとえば小学生くらいだと、

  • 足が速い
  • 運動神経がいい(スポーツが得意)
  • 面白い、ひょうきん
  • 勉強ができる
  • イケメン
  • ケンカが強い
  • 悪い

といった子たちが相対的に目立ちます。つまり友達にも、女の子にも、先生からも存在を意識されます。

  • ケンカが強い
  • 悪い

というと若干ネガティブですが、私にとっては「目立つ」という価値においてほとんど同列でした。「目立つ」=「重要」だったのです。目をかけてもらえるだけで重要だと感じていたわけです。「メリコの法則」の「メ」ですね。

それらのどれにもなれない自分がたまらなくイヤだったことを覚えています。

しかし、怒りの矛先は自分を認めてくれないまわりの人だったことも否定できません。

「なんでオレのことを見てくれないんだ!」
「なんでオレの言うことを聞いてくれないんだ!」

こんなふうにずっとすねている、そんな子どもだったように思います(ちょっと大げさですが)。

同じように学校で大して目立てない友達もたくさんいましたが、多くの子たちがそんなことはどうでもいいと考える中、私にとって、この時期の「存在感がない」「普通の人」というまわりの評価は何ものにもかえられないくらい辛いことでした。

ある日、象徴的な出来事が起こります。

学校の修了式で通知表をもらって帰ってきたときのことです。私の出身の練馬区の小学校は、当時は通知表の評価が

  • 良い
  • ふつう
  • もう少し

の3段階でした。そのすべての教科および生活態度の評価でオール「ふつう」をとったのです。「ふつう」の欄にきれいにタテ一列に並んだ「◯」の印をいまだに鮮明に覚えています。

客観的に、定量的に、学校公認で「価値ないよー」と言われたと感じました。

他の人にとってはどうでもよいことでしょうが、または「もう少し」が多い子からは良い成績だと思われたかもしれませんが、私はそれを見て愕然としました。

この時、言葉にはなりませんでしたが明確に自分のコンプレックスを実感しました。

ちなみに両親は2人で会社を経営していましたので遊び相手はほとんどしてくれませんでした。

夕飯を食べた後は、父親はお酒が入っていることもありそのまま居間で雑魚寝。。。母親は鬼のような後片付け(母親は仕事も家事も大量に完璧にこなすスーパーウーマンでした)。

兄弟もおらず遊び相手がいない私のこのころの趣味は

  • ひとりでトランプ
  • ひとりで将棋
  • ひとりでお絵かき
  • ひとりで自分で考えたゲーム

などなど。

そして、厳しかった両親は私におもちゃをあまり買い与えませんでした。たぶん「我慢すること」を教育したかったのだと推測します。

でも、だからこそここで「どうやったら楽しくなるか」を常に考えるようになりました。

「誰も遊んでくれない、でも楽しみたい」
「なにも与えられない、でも楽しみたい」

こうして得たスキルのひとつが創造性です。自分が楽しいと思う何かは自分でつくり出す、生み出すしかないのでした。

実は私、小学校一年生の時に死にかけています。

重い肺炎にかかり、学校を2ヶ月休学。当時の町医者の先生がとても優秀な方で入院こそ免れましたが、血液数値は80〜90歳のもうすぐ天寿を全うされる方にも1人か2人くらいしかいないレベル。

両親はお医者さんから「覚悟しておいてください」と言われたそうです。

 

●やっぱり普通でいじけていた中学生時代

自分のコンプレックスは中学生でさらに大きくなります。

目立てなかった小学生時代の記憶を書き換えるかのように、クラスで存在感を出すことに躍起になりました。

結果、入学早々クラスで悪目立ちし、少々いじめにあいましたした。クラスで中心的なポジションになりかけていましたが、いじめられている子をかばっていじめられるという「あるあるパターン」です。

それからあまり目立たないようになりました。小学生時代とさして変わらない毎日。より一層コンプレックスが強くなったのは思春期だったせいもあると思います。

私は小学5年生からサッカーチームに入り中学の部活もサッカー部でした。

しかし、ここではレギュラーにもなれず、レギュラーメンバーとの付き合い方もどうすればいいか見失っていました。

サッカーがうまくなければ先輩からも同級生からも後輩からもリスペクトされないし、かといってサッカー以外で仲間に一目置かれるような存在感を示せる何かも持っていませんでした。

とある練習試合では、お情けで途中出場させてもらった中、ドリブルで相手を抜こうとしたときにボールを見失ってしまい、そのまま相手とぶつかって、見失ったはずのボールの上で尻餅をつき、お尻でジャンプしそのまま立ち上がるという奇跡を起こし、ベンチで見ていたレギュラーメンバー、試合に出ていた仲間や後輩、顧問の先生、対戦相手とそのベンチから大爆笑を引き起こすという、キャプテン翼もびっくりの荒業をやってのけました(笑)。

そしてこの技(?)は「消えるフェイント」と名付けられ、しばらくの間ちょっとしたブームになりましたが、当時の私にはこれを笑いで切り返す能力もなく、恥ずかしいし辛いし、もうサッカーを辞めたいとすら思いました。せっかく目立てたのに(笑)。「ボールは友達」って言うけど、その友達にも騙され裏切られたた気分でした(もちろん自分が悪い)。今なら「おいしい」と思うし、お笑い芸人ならまさに神業なんですけどね(笑)

そんな中、さらにまた象徴的なできごとが起きます。

私の中学校のサッカー部はとても強く、東京23区の中で当時かなり強かった練馬区のその中でも優勝したことがあります。

まさにその優勝がかかった区大会決勝戦、保護者が大勢見に来ている中でのことでした。運動会すら来たことがなかった両親もそのときばかりは珍しく試合を見に来ました。

両親含む大勢の保護者の目の前で顧問の先生に言われたのがこれでした。

「津久井、ゴメン!ベンチにも入れてやれない!」

後輩でベンチ入りしている人間も当然います。私たちの学年では優勝のかかったこの試合でベンチ入りすらできなかったのは私ともう一人だけでした。

いまだに覚えていますが、先生にベンチ登録もできないと告げられてなんとなく笑ってごまかす自分、そして自分の視界の中に大勢の保護者に混じってこちらを見ている両親をはっきりと確認しました。その状況も笑ってごまかす自分もとても情けなかった。

もちろん、厳しいスポーツの世界ですからこんなことは当たり前です。

ただ、何が象徴的だったか。

そのサッカー部のエースは、3歳から遊んでいて家も同じアパート内にある幼馴染だったんです。

先輩から好かれ、
後輩から慕われ、
友人から尊敬され、
先生から一目置かれ、
そして女の子から絶大な人気があって
さらにサッカー部のエース。

否が応でも比較してしまう自分。

そして何より、彼はうちの両親からも絶大な評価を得ていました。

私がほしいものをすべて持っていたのがその幼馴染だったというわけです。もちろんその試合でも大活躍(そして優勝)。

こんな出来事の数々が私の原型を作っていきました。

 

●存在感の示し方を少し掴んだ高校時代

実はうだつの上がらなかった中学時代において、もっともすばらしい決断をしたなと当時の自分を褒めたくなるできごとがひとつだけあります。

それは高校受験の時の話です。

好きな子を追いかけて自分の偏差値より15以上も低い高校に入学することに決めたのです。

中学時代は地味に勉強ができました。しかし学年でそもそも目立てない中途半端な存在感の自分が、多少テストでいい点を取ったところで注目されるなんていうことはほとんどありませんでした。

なにせサッカー部のキャプテンだった友人(先ほどの幼馴染とは別)は、最後の大会が終わってもサッカー部を引退せず、塾にも行かずに、早稲田高等学院、慶応大学付属志木、筑波大学附属の高校、都立西高校(当時都立で1〜2位を争うほどの進学校)などすべてに合格する天才でしたし、似たような人が数名いましたから。。。

私は偏差値がそこそこ高い高校も推薦枠を使って合格していたのですが、どうしても好きな子と同じ高校に行きたくなってしまいました。

母親は「偏差値の高い私立」に行かせようとし、私は「おバカな公立高校」に行こうとしたことで、母親とは毎晩大ゲンカ。結局「行きたい高校に行く権利」をなんとか勝ち取ります。

でも今思えば、好きな子がどうのこうのよりも、そんな理由で高校を選ぶ(偏差値を下げる)「普通じゃない行動」をしたくて仕方なかったんだと思います。

誰もが

  • 自分のレベルよりも高いところ
  • 自分のレベルと同じくらいのところ

を目指す高校受験で誰も取らない行動を取った自分に不思議なことが起こります。

まず、高校に入学してすぐ、勉強は何もしなくても学年で二番に(その後一番に)。

レベルの高いサッカー部にいたおかげで入学早々いきなりサッカー部のベンチ入り。

「ねえねえ、あの人よ!サッカー部でいきなりレギュラーになって頭も超いい人〜!」

みたいな女子たちのささやきが聞こえ、人生初のモテ期到来(最初で最後)。

中学時代苦手だった数学がちょっとした成功体験でものすごく得意になり東京都で28位に。

これは、自分のレベルにあった、もしくは自分のレベルより高い高校に行っていたら得られなかった実績だと思います。

レベルの低いところに行ったことで、成功体験を積むことができた。結果レベルの高いところの人たちよりも良い実績をあげてしまった。これはとても不思議な体験でした。

実はこれは私のブランディングのわりと基礎的な考え方になっています(レベルを下げろという意味ではありません)。

その後、偏差値50のその高校から現役で横浜国立大学に推薦入学。全校朝礼で「我が校から名のある国立大学に現役で入ったのは数十年ぶりの快挙」と発表されます。

大学はおろか専門学校すら落ちる人が続出するような高校でしたから、本当に快挙だったようです。

が、おバカな仲間たちや後輩たち(人間的には大好きですよ)にはその価値はわからなかったようです。

そもそも「横浜国立大学?聞いたことね~し」という人がほとんどでした(笑)。ちなみに私のサッカー部の先輩は円の面積の求め方がわからず専門学校を落ちていました(汗)。

高校時代、調子に乗った私はバンドをはじめます。バンドではラジオ(ニッポン放送)に出演しました(もちろん素人としてですが。。。)。

クラスでは中心的な存在になり、学級委員長に推薦され、「反抗的な学級委員長」として先生に向かって消しゴムとか投げてましたね。。。

中学1年生からはじめた空手のおかげなのか、わりと運動神経が開花し、体育の授業の評価は常に「5」でした。

「運動ができて、勉強ができて、大人に歯向かう」

こんなのがかっこいいと思っていて(ものすごい偏見)、実際に評判が良かったわけです。

つまり高校時代は「なりたい自分」になれた時期でした。

 

●存在感がおかしい方向にいった大学時代

もっと目立ちたい、と思っておかしな方向にいったのがこの時期です。

こちらをご覧ください。見ての通り、完全にオ◯ム真理教です(汗)。

この写真は大学に入学して早々のものです。

実際にこの数週間前に地下鉄サリン事件があり、当時、汚いネルシャツとラッパズボンでこの顔をしていた私は電車に乗って駅員さんに何度あとをつけられたかわかりません(紙袋とか持ってたし)。

そして、もっと目立ちたいと思っていたくせに、ある時急に燃え尽きます。

高校生時代の華々しい(と勝手に思っている)時代から一転、急に冷めて(覚めて)しまい、家に引きこもって電気を消して夜な夜な暗闇でギターを弾く(しかも大して弾けない)という、「達観した自分」に酔ったパフォーマンスをしていました(誰も見ていないのに)。「暇だから死のうかな?」とか思っていましたし(ほんとにバカです)。

勤労意欲はほとんどなく、バイトも週に1〜2日くらいしかしませんでした。本当にどうしようもない時期でした。今、こんなに働いている自分が冗談抜きで不思議です。

そんな中でも新しくバンドを結成し、インディーズでCDをリリースしました。

このころの自分は、「普通ではない、人とは違う人生」を生きたいと思っていましたが、それをひとりでやる勇気はありませんでした。なので、バンド活動は仲間という「道連れ」がいて自分にとっては程よかったのかもしれません。

とにかく大学時代はサッカーとバンドと麻雀しかしない、本当に堕落した4年間を過ごしました。

大学4年になってすぐの就職活動時期、バンドの練習明けにメンバーと食事をしていたときのことです。私は勇気を出して言いました。

「就活しないで1年間バンドをやろう!」

メンバーの反応は意外とよかったです。長い人生、1年くらいフリーターやりながら何か大きいものを目指すのもいいだろう、と。

そんなメンバー同士のアツい誓い合いがあった2週間後、中心メンバーだったボーカリスト(私はギター)が内緒で就職活動をしていることが判明。

びびりの私は慌てて就職活動を開始しました。

そういえば余談ですが、勤労意欲がなかった私ですがひとつだけ思い出深いバイトをしていました。大学4年の半ばから半年間だけですが、某音楽駅番組(笑)で大道具さんのお手伝いみたいなバイトをしていたんです。

そのときに仲良くなったのが、今ではすっかり有名となったものまね芸人の「ホリ」です。実は先週、ホリくんがうちの事務所に来てくれました。今とあるロゴの依頼をもらっています。そして、4月から千葉テレビで彼の冠番組がはじまります。企業を紹介する番組です。出演企業募集中ですが、これについては来週あたりにまた紹介させてもらいます。

 

●社会人1年生から転職まで

就職先を決めたのは、「その大学から誰も行こうと思わないだろう」という思考パターン+直感でした。

これは、高校選びと大学受験で身につけた成功体験がベースでした。人と違うことをやったほうが結果は必ず良いものになるはずだ、という考えです。

リクルートの情報誌を見ていて「あ、オレこの会社に入るな」と感じた会社に本当に入社してしまいました。その会社の説明会には300人以上来ていたようですが説明会経由で入社したのは私だけでした。

うまいこと存在感と存在価値をその会社を受けた誰よりも示せたのです。このころにはこのくらいのことは御手の物になっていました。。。

本当は、ゼミの先生に気に入られて

「都市銀行ならどこでもクチを聞いてやる。住友銀行(現三井住友銀行)か三和銀行(現三菱東京UFJ銀行)なら確実にコネで入れてやれる。他のゼミ生にはこの話はしていない」

と言われていました。ゼミでもうまく存在感、存在価値を先生に対し感じてもらうことができていたのです。

ですが、「お金の勘定に興味ありません」という生意気な発言をし断ります。

存在感を示す自分の勝ちパターンから外れていたと思ったのと、将来独立の可能性をどこかで考えていて、小さい会社のほうが社長の近くで1から10まで勉強できると思ったのです。

就職氷河期1年目と言われた1999年入社組、誰もが大手に何とか入ろうとする中、この規模の会社に入ったのは学年でも私だけだったかもしれません。

結果、狙い通り入社した会社で目立ちます。その会社では私が当時もっとも高学歴だったからです。先輩たちも「ついにうちにも国立大学出身者が!」という評価だったらしいです。

で、社長の仕事を入社3ヶ月でいきなり引き継ぎ、営業成績が自動的にTOPになります。予想どおり社長に近いところで1から10まで仕事をさせてもらえたので、ものすごくきつかったですが、ものすごく勉強になりました。

このころ、二足のわらじでつづけていたバンドで大手レコード会社からCDをリリース、あと一歩でメジャーデビューできそうでしたが、ある日、大事なライブの当日に例のボーカリストがまさかの失踪。そのままバンドは空中分解しました。

新卒で入社したこの会社では社長から「お前はワシのロボットになれ」とはっきりと言われました。

普通コンプレックスの私が「人のコピーになれ」と言われるのは本当にイヤなことだったのですが、このときは新卒でデザインの「デ」の字も、印刷の「イ」の字も知りませんでしたから丁稚奉公のごとく本当に2年間ロボットのように働きました。

いやいやそれどころか、自分で予測して社長のスケジュールを先回りしたり、苦手だったパソコンでデータベースを勉強して組んで手書き文化だった会社の中でひとりパソコンで仕事したり、ロボットよりも人工知能といったほうが近かったかも。

2年したところで一度社長にブチ切れました。

人工知能は将来人間の敵になるかも、みたいな話に近いかもしれませんが、「ロボットの反逆」よろしく、自由に仕事させてくれない社長と電話で大ゲンカしてしまったのです。

自分で言うのもどうかと思いますが、2年間は本当に朝早くから夜遅くまで「社長のいいなり」としてがんばったと思います。

もともとロボットになんかなりたくないタイプの人間ですから、この2年間は多くを学びましたが鬱憤も溜まっていたのでしょう。

ある仕事の決裁を社長がしてくれず、理由を聞いても「ダメなもんはダメだ!」しか言ってくれない社長と大ゲンカ、最後は「もういいですよ!!!」と思わず電話をガチャ切りしてしまいました。

その10秒後に、また社長から私宛に電話がありました。「ごめんな、君の思うとおりにやってみなさい」と言ってもらえるのかと思いきや、

「ワシより先に電話を切るんじゃない!!!!!!!!!!」

と言ってガチャ切り返しをされました。。。

今思うと、この会社にいた期間はビジネスにおいての少年時代のようなものかもしれません。そしてこの会社の社長はビジネスにおいての父親的存在だったと感じています。

勉強の基礎を学ぶ小学校と同じで、この時期にロボットのように動くことはもしかしたらよかったのかもしれません。守破離の「守」ができない人って思いのほか多いんですよね。実際に新卒のときに厳しい環境で仕事をした人間のほうが、その後仕事で成功する確率が高いというデータがあると聞いたことがあります。

そんな会社で6年間働き、巣立ちます。マーケティングを勉強したくて転職しました。

転職先では結局、マーケティング職ではなく営業職での入社となりました。しかもブラック企業でした。

残業が多いとか、そんなことははっきり言ってどうでもよかったことです。むしろ逆で、その会社はある会社の子会社として「ど」がつくベンチャー企業で、まだサービスも開始されていないのに、それどころかサービスの開発中なのに、夕方5時になると20人近い社員のほとんどがそそくさと帰宅するような会社でした。

1月にできた会社で4月からサービス開始の予定でしたが、5時に帰っていて間に合うレベルではないのに誰もが自分ごととは感じていませんでした。

「自分は早く帰っても4月にはサービスが開始されるんだろう」

そんなわけがないことはちょっと想像すればわかることなのに、みんなこう思っていたのだと思います。

社員のこの低いメンタリティがまずはブラック企業です。ベンチャーだということはみんな聞いて入社または転籍してきているはずなのに。。。

3月頭の時点で4月にサービスを開始できる気配すらなく、社長がついに怒りだします。

「おまえら、営業も一般事務も上司も部下も男も女も関係ない。今月ひとり50万売り上げろ。達成しないやつは給料なしじゃーい!!」

この社員と社長のやり取りがお先真っ暗な感じという意味からもブラックです。まあ、その会社のゼネラルマネージャーもどうしようもない人でしたから、社長の気持ちもわかります。

私はこのゼネラルマネージャーがキライでした。そして、ゼネラルマネージャー含め5時に帰宅していく同僚もイヤでした。

そんなとき、いつもひとりだけ残業をしている人がいました。この会社の取締役でした。

夕方5時以降にみんなが帰った後、一部屋だけ煌煌と明かりが灯る取締役部屋。私は5時以降になると、自然とこの取締役の仕事を手伝うようになりました。

あるとき、ゼネラルマネージャーが会社の計画がうまくいっていないことを社員の前では社長のせいにしていたのに、社長に向かって社員のせいにして話をしているのを目撃してしまいました。何か事情があったというよりも保身のようにしか感じられませんでした。

そして、取締役に勇気を出して言いました。「もうあの人の下で働きたくありません」。

すると取締役は「じゃあ、おれの直の部下になるか?」と声をかけてくれたのです。

そしてその取締役は私が求めていたマーケティングのプロフェッショナルだったということが後からわかったのです。図らずもマーケティング職を諦めて営業で入った会社でマーケティングを学べるとは。毎日より一層遅くまで仕事をすることになりましたが、その人にすべて叩きこんでもらえました。

ちなみに50万円の売上は私と取締役とあと2名しか上げられず、ゼネラルマネージャーすら達成しませんでした(私は50万のうち20万自腹)。

このあたりから、社内には「この会社おかしくない?」という雰囲気がはびこりだします。

おかしいのは会社だけじゃなくて「おかしくない?」とか言ってる君らもだけどね、と思いましたが、それは言葉には出さず、ひたすらにマーケティングの仕事をもくもくとこなし、昼ごはんも意識の低い同僚とは行かずひとり喫茶店に入り、取締役に聞いた読むべき本をすべて読んでいました。

それでもというかやはりというか、私と取締役ではその組織の崩壊を防ぐことはできませんでした。私が入社して(子会社ができて)9ヶ月後、多いときには50名くらいまでいった社員は私と取締役を入れて9名にまで減り、ゼネラルマネージャーも辞めていました。

そして、あるとき取締役に言われます。

「オレらももう、ここにいてもできることはない。給料泥棒になってしまう。潔く辞めよう」

先のことがまったく決まっていませんでしたが、私は昼ごはんのCoCo壱番屋のカレーを食べながら二つ返事で「わかりました」と伝え、翌日にはふたりで辞表を出しました。

 

●独立直前にヨメが妊娠

実はここで一度、思い切って独立してみよう、と思ったことがあります。ネットを使って両親が経営する薬屋さんの健康食品を通販しようと思ったのです。

1社目の時から結婚資金として貯めていた120万の貯金は、2社目で予定の額の給料がもらえなかったことや20万の自腹を切ったことにより、残りが30万円ちょっとにまで減ってしまっていました。

しかし、そのなけなしの貯金をはたいて30万円で知り合いにサイトをつくってもらうことにしました。

残った貯金を使いながら実家に行ってご飯を食べさせてもらったり、だましだまし準備をしましたが、結局貯金も底をつき、サイトが完成する直前でもう一度就職することになります。

2社目のときに付き合いのあったIT関連の社長さんが私を気に入り、

「友人と飲食のコンサル会社をつくって自分が取締役になったから、オレの部下として来てくれ」

とオファーがありました。こうして3度めの転職をします。

独立前の総まとめとしてこの会社では

  • 撮影
  • デザイン
  • 原稿作成
  • 印刷手配
  • 新店オープン準備
  • ECショップ店長
  • 採用活動
  • 人材教育
  • マーケティング
  • フランチャイズの営業
  • お茶くみ
  • コント(ネタづくりから)

と全部やりました(どんな会社だ??)。

入社して6ヶ月、結婚資金は自分で貯めたいと思っていましたが結局親の援助を受けて挙式。結婚式は明治神宮と明治記念館で盛大に執り行わせてもらいました。

社長はじめ会社の役員5人が全員出席し、社長は祝辞で「三階級特進!課長代理!年俸120万アップ!」のサプライズ辞令を出し、両親はじめ親戚一同が私に対してとても誇らしい気持ちになった2ヶ月後、早くもその会社を辞める決断をします。今思うとなんて薄情者なんでしょう。

理由は、そうです。ついに独立をするためです。

実は結婚式の1ヶ月後、ヨメが妊娠していることが発覚。心の弱い私は子供が生まれてからでは守りに入ってしまうと思い、ヨメに

「子供が生まれてもメシが食えなかったら会社員に戻りるのでチャレンジさせてください」

とお願いします。

そしてそこから会社に辞表を出し、その後で「何のビジネスをやろうかなー?」と考えはじめました。

でも、これも実は完全に自分の必勝パターンでした。そんな変わった状況で独立に踏み切る人はほとんどいませんから。そんな時こそ、自分の能力が発揮されると直感的にわかっていたんです。

ヨメの親戚一同がヨメに「おい!大丈夫なのか!」と連絡してきていたらしいです。

そりゃそうです。結婚して1ヶ月、しかも妊娠している。おまけにヨメの親戚一同、愛知の豊田市在住でトヨタ自動車に最も恩恵を受けた世代。

「独立?え?バカかな?バカなのかな?」

というレベルで私の行動が意味不明だったんだと思います。なぜそんなリスクの高いことをするのか。

会社を経営している自分の両親はきっとこの気持がわかってくれると思っていました。ところが、なぜか自分の両親も私ではなくヨメに「おい大丈夫か?」と連絡していたようです(笑)

ヨメの友人は

「あんたのダンナはイカれてる!」
「何考えてんの?最低!!」

とみんな口を揃えて言ったそうです。

しかしこれらはすべて、冗談抜きで逆に褒め言葉にしか聞こえませんでした(どんな耳だ?)。「うまくいった時にネタになるな」と思っちゃうんです。

結局、会社を辞められたのは辞表を出してから2ヶ月半後でした。ラスト2週間はタダ働きをして後進を教育しました(良好な関係を保って辞めたかったため)。

1ヶ月でホームページやら何やらの独立準備して、2006年9月に独立。人間死ぬ気になったら1ヶ月でなんでもできると思います。

5ヶ月後の2007年1月、長男誕生。その時には何とかギリギリメシが食えるようになっていました。

 

●最後に・・・

さて、長々としょうもない過去を振り返ってきました。お付き合いくださりありがとうございます。

なぜこんな長くてしょうもない話をさせていただいているかについて、最後にちょっと触れたいと思います。

これは、津久井がなぜロゴデザイン会社をやっているか、なぜデザインやブランディングの仕事をしているか、ということに実は密接に結びついています。

普通コンプレックスだった私が手に入れたものがあります。

それは、「表現力」という本質的な力です。

小学生時代、中学生時代、普通コンプレックスを持ちながらも自分が理解してもらえないことを人のせいにしていました。

しかし、自分から表現することができれば実は人から理解し存在を認めてもらえる、ということがわかりはじめます。

そこからは、「ではどう表現すればより理解してもらえるのか」ということを無意識的に考え、感じはじめます。それがいつの間にか表現力になったわけです。

このように、辛い経験や自分の弱さなどから、人は何かしらの力を自然と手に入れていると言われています。「コアスキル」というやつです。

私のコアスキル「表現力」は「デザイン」という手段を使ってさらに発揮されるようになりました。デザインだけではありません。「言葉」「文章」も同様です。

そしてこのコアスキル「表現力」を自分のために使うのではなく、お客さまの課題解決のために使う、こういったことをビジネスにしています。

その中でもロゴマークは、存在感、存在価値を表すシンボルです。

お客さまの会社が、商品が、サービスが確かに存在することを示すものがロゴマークです。

存在感のなさにコンプレックスを感じた少年は、お客さまのビジネスの存在感、存在価値を示すことを仕事に選んだわけです。

これが、ビズアップという会社の最も強いUSP(ユニークセリングプロポジション)です。

我々をパクる競合が出ても絶対に負けない自信があるのは、このUSPがあるからです。これはパクリ企業では絶対に持ち合わせていません。

生き様だけはパクれない!(by 津久井)

繰り返しますが、デザインと文章、言葉と画(え)、このメルマガでは何度も登場しましたが、この2つについて私が語れるのは、自分の存在感、存在価値を示すために必要なスキルだったからです。それを自分のためではなくお客さまのために使っている。

つまり、私たちの仕事はこう言い換えることもできるわけです。

「言葉とデザインでお客さまの会社を表現し、存在感、存在価値を示す仕事」

ロゴだけでなく、パンフレットやホームページ、名刺などのお仕事はすべてこの価値観でやっています。

ふ〜、長い!(すんません!)だいぶ長くなりましたが、そろそろ終わりにしましょう。

こんな私たちと仕事をしたいというお客さまをぜひ大切にこれからも事業に励みたいと思います。最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

今回はここまでです!

津久井

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